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日本テレビのスポ~ツニュ~スを見ていて、ダルビシュの勝利を見事なと表現した。

私は近年、テレビの表現にいい加減な活用が目立つのが気になっている。今回のダルビシュの勝利は見方の打線に助けられた幸運な勝利といえる。初回から制球力が乏しく、4点を計上している。試合後の談話でも思うような投球が出来なかったと自ら、語っている。

見事とはかけ離れた内容である。こんな時、表現として「見事」と言うだろうか。私は絶対にそうは表現しない。「辛くも」とか「味方打線に助けられての勝利」とか表現するだろう。

そのことはテレビ報道の本質を見る。例えば、それがアナウンスの誤りであったなら何らかの行為を取るべきだ。編集段階で修正出来るなら修正すべきだし、その班の責任者は担当アナウンサ~に反省をうながすべきである。
私は嘗て、創作に関わる集団に属していた。そのとき、不用意な表現や独断的な行動をした場合はかなり厳しい制裁があった。時代が違うといえば、それまでだが、ビンタさえ戴いた。しかし、自分にも否がある事を理解して、甘んじて受けたものである。しかし、その制裁は骨身に沁みて二度と同じ誤りは冒さなかった。
多分、現代では、そうした指摘はなされていないだろう。過去に何回も同じ誤りを私は確認しているからだ。

最早、報道の主体性が失われ、より正確な表現を志す意欲が見られない。たるんでいるのだ。現場もそれを統括する責任者も自分の仕事に対する責任感も使命も甚だ軽い。「まあ、いいだろう感」が垣間見られる。もって、反省するべきである。







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