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図書館で、岩松了の戯曲が目に付き、通読する。
かれこれ三十年前だろうか。岩松が江本明の「東京乾電池」で本を書いていた時分、二三の戯曲を読み、芝居も見に行ったことがある。まだマイナ~もいいとこで、観客も少なかった。しかし、奇妙な雰囲気があり、私は立て続けに三本ほど見た記憶がある。その時は、イヨネスコやらピランデルロ、ベケット、鶴屋南北、清水邦夫などに傾注しており(多分、私がカフカの変身に衝撃を受けていた時分だったと思う。映画ではベルイマンの野いちご、冒頭のイサクの棺おけと無人の町並みが頭にこびり付いて離れなかった、ブニュエルのアンダルシアの犬もまた痺れていた)その延長上に岩松了がいたのだった。
岩松は、淡々とした日常にまるで出来物のようにふと、非日常性が顔をのぞかせる。超現実主義、一般的だが、ダリの描く夢の瞬間、現実と非現実の割れ目からのぞく奇妙な異物、サルトルが言う嘔吐の意識、その虚実皮膜の世界が実像化する瞬間が想像されていることに私は感激したに違いなかった。

その後、馬鹿な私は、酒に溺れて、現実の酒場で管を巻き、フラストレィションを発散されいい気になっていた。つまり、様々の現実世界の苦難から逃げていたに過ぎないのだったが、一応、生き続けていたのである。

そのときには、私は過去の様々な経験を全て捨てたようなものであった。

そんな自堕落な生活を五年前に気がつき、また、戦後史を通して古代史に余生を過ごす縁(よすが)を見て、古代史に私を埋めてみたいと、今日に到ったと言うわけである。
すると、過去の幻影が脳裏から引き出されてきて、私を楽しませる結果になったのである。こう言っては何だが、記憶というものは馬鹿にならないもので、この歳でも覚えているものである。キッカケさえあれば、鮮明に蘇えってくる。それが、先日の図書館で見つけた「水の戯れ}である。

そして今日、古いアニメを見ていて、宮崎駿の映像にある古代の意識を感じた次第である。
私の古代の空想は、青々とした山と渓流、海である。塩土老爺と先住民族(勿論多神教が根底にある)、入墨をした渡来人が心に浮かんでくる。私がもし、アニメのシナリオを書くとしたら、そこに幾重にも重なる次元の膜を設定して、それらの古代の人々を描くだろうと思う。小道具は鋭いナイフで、次元の膜をナイフで切り裂き、次元を自由に表して展開するのも面白いと想像した。

この歳で若返るのもまた、楽しからずや、である。
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