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木花開那姫(このはなやさくやひめ)は、大山祇(おおやまつみ)の娘であり、国生みや神々を生んだイザナミ女神の系譜でもあります。イザナミは縄文時代の土偶・地母神の延長上にあります。
二年前、私は東京国立博物館で開催された「土偶展」を見ました。土偶は明らかに、出産を表している女神です。中には朱を施すものもあり、顔に入墨をしている土偶もありました。

土偶の入墨については学者の間ではあまり注目がされていませんが、私は縄文時代から南方の習俗がそこに見られると感じています。特に、中国の江南との交流は想像できるのではないかと考えます。滝川政次郎博士の説く南九州と江南の交流はあったのではないかと、その「土偶展」で感じました。

いずれにせよ。イザナギやコノハナヤサクヤ姫と土偶(地母女神)は繋がっていると確信しました。それは南九州(野間半島・加世田市)と中国・江南(または南方諸島)との関連もまた色濃く反映されているような気がします。

天孫降臨のニニギ命が日向の高千穂の襲(會・そ)<鹿児島県・大隈地方>に降り立ち、笠沙<野間半島・加世田市>に行き、コノハナヤサクヤ姫(吾田鹿葦津姫・あたかしつひめ)と遭遇するわけです。

この襲(會・そ)は甑(こしき)とも通じ、甑には蒸し器・大壺の意味があると、白川静教授は「字通」で述べています。奇しくも、會の地(大隈地方)には縄文草創期(約一万年前)に上野原遺跡が発掘されていて、そこには蒸し器や大壺などが発掘されています。これは単なる偶然だとは思えないのです。
ことによると、「古事記・日本書紀」の編者達は「風土記」等の収集を通じて古老からの「語りべ」として認識していたと考えられるのは強ち、妄想とはいえないと思います。

ニニギ命が會(襲)から笠沙で大山祇の娘・コノハナヤサクヤ姫(吾田鹿葦津姫)と遭遇して血縁するわけですが、吾田姫はまた、その背景に遺跡を担っています。

吾田は隼人の別称で、この地には、やはり縄文草創期(一万年前)にかこいノ原遺跡が、加世田市で発掘されていて、そこには丸ノミ式石斧が出土しています。それは丸木舟を作る道具でもあります。丸木舟は遺跡として発掘していませんが、縄文時代から丸木舟が作られ、航海がされていたことは大いに考えられます。事実、薩南諸島にはこの石斧が出土していて、かこいノ原石斧文化圏を形成しています。

つまり、吾田姫はこの文化の象徴的存在として考えても間違えはないでしょう。

天孫降臨のニニギ命が、江南(私はそれは呉国だと考えています)からの渡来したと仮説して、吾田姫は野間半島(加世田市)の先住民の女性でそこで融和した考えると辻褄は合います。

天孫降臨神話は襲(會・そ)から笠沙へ移動する時、ニニギ命を天忍日命(あめのおしひのみこと・大伴氏の祖先)と天津大久米命が笠沙へ先導したと「古事記」では語っています。(「日本書紀」では天忍日命が久米氏を部下として使っていたと述べていますが、これは「日本書紀」の政治的な創作でしょう)

ここで加世田市から、縄文時代の発掘で興味ある土器片があります。それは上加世田博物館で展示されている、「久米」の文字を刻んだ土器片が存在していることです。
この野間半島の「久米を刻んだ土器」は久米氏が笠沙(加世田市)に居住していた事実を証明しています。ニニギ命を先導した「久米氏」は史実として存在していたと言うことがいえると思います。
但し、「久米氏」の存在はそこで途切れてしまいます。だが、私は土器を製作するほどの事実を尊重します。それは一般的な行為とは思われません。やはり、意味がある事実だと思うのです。だからこそ、私はこの遺跡の周囲を検討しようと思っているのです。

いずれにせよ、吾田姫と大山祇との関係は、南九州の先住民族の問題を含んでいるので重要な課題であります。追求するのが楽しみでもあります。
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