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谷川健一さんの著作はかなりの資料を要求している。正確に読み進めるには、その引用文を確かめなければならないのだが、余りの数の多さに追いつけない。だから、消化不良のまま読み進むことになる。

この主題の一つに「銅鐸」があり、以前から私も「銅鐸」に興味を持ってはいた。しかし、「銅鐸」はそれを知る文献が少ない。形式やそこに描かれた象形文字かと思われる絵画も解明されていない。「銅鐸」は多分その始めは「銅鼓」であると、私は考えているので、その辺の勉強もしてみたが、文献が少ないために消化不良である。

「銅鐸」はその形から、「釣鐘」を思わし、私は直感的に葬送に関した祭器ではないかと、あたりをつけて、その辺の資料を探したことがある。
そこで行き着いた先に、「苗族(みゃおぞく)」の銅鼓があった。銅鼓を彼等は「南」と言う。そして古代中国人は「苗族」をも「南」と呼んでいた。「南」はどうやら、彼等の葬儀の神器であり、首に架け祈りと共に供したと言う。その音は荘厳で魂をも貫く神秘さに満ちていると述べられている。「南」即ち、「苗族」は葬送を司る祭司であっただろう。

苗は、草かんむりに田である。農耕に従事した文字であろう。それが、畑作か稲作かははっきりしないが、穀物に関わる文字なのはわかる。「苗族」は農耕に従事した民俗でその祭祀に関わる種族であろうと思う。

「苗族」の出自は、黄河流域で、黄帝にそこを追われ、長江流域に移動したと言う伝承がある。そこでいくつかの種族に分かれて、連合国を形成し、伝承では「三苗(さんびょう)族」として栄えたと言う。かなり高度の文化を持ち、金属文化や優れた城壁技術を有していた。それは灌漑技術も含み、もう農業生産の多くあったと推定される。私達が考えるより高度の国の形成がなされていたようである。

良渚遺跡は彼等の文化の集積が見られると、言われています。その「苗族」の首長が神話で言われる<しゆう>です。この優れてた首長の<しゆう>は紀元前2000年の大洪水で長江を追われ、比較的被害の少なかった黄河中流域に生活の地を求めて移動します
。しかし、そこには先に黄帝が君臨していて、有名な神話「琢鹿の争い」になり、初めは<しゆう>軍が優勢でしたが、黄帝は天の西王母の応援で「跋女神」を応援に下して<しゆう>を破ります。

何やら、神武東征の神武天皇への天照大神の助力を思い興します。

「三苗(さんびょう)」軍は撤退を余儀なくされ、やむなく長江中流域の洞庭湖周辺に退きます。
この伝承は「三苗族」が「倭の種族」のさきがけのような気がします。その後、「倭」は百越といわれ、「越」が「倭」の代表のように語られますが、私は「苗族」こそ「倭」の始原だと思っています。詳しいことは後日に廻すとして、ここでは「苗族」が「倭」の始まりだと言うことを述べるに留めたいと思います。

「苗族」は犬祖伝説をもち、入墨の習俗や銅鼓を土に埋める習慣など日本の「倭族」との共通点が多いのです。
銅鐸の扱いも、「苗族」の銅鼓の祭祀としての扱いも酷似していて、その習俗は共通しています。
(私は、苗族も「呉」をそのカテゴリィの中に入ると思っています。「呉」もまた、「日本の倭」との接点が多いので大いに関連を予測しています)








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