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今こそ日本人は哲学を持つべきだ。
私は秋元商法が嫌いだ。あの商法は弱いもの虐めそのものである。金のない若者がタレントに入れあげてアルバイトの給料を注ぎ込む。若者がタレントに入れあげるのは理解が出来るが、それを操る胴元の欲望の原理に問題があるのだ。
私は資質より努力に価値を置く。資質は親のものであり、神に属する領域の問題である。努力こそその人の責任で推し量れる流域の問題で、その努力に見合う対価こそ正当な報酬なのである。秋元らはその差額を不当に搾取しているに過ぎない。それは私に言わせれば罪悪なのである。しかし、現在は個人主義的資本主義である。その罪悪は正義なのだ。米国の経済至上主義がその先端であろう。
時代が価値を決めるわけだが、個人主義的資本主義は爛熟しすぎてきた。嘗て、基本的生産性と付加価値的生産性を述べたことがあるが、人の生きる土台にははっきりと根を張った生産性が横たわっていなければならない。付加価値だけがこねくり舞わされて、一部の階級に価値が滞留すれば貧富の差が拡大するのは目に見えている。弱者は結局、淘汰される。そして、強者はまた弱者作りにいそしむのである。それが低開発国の底上げである。
こんな鼬ごっこは当然、地球規模では世界を二極化させ、帝国かさせる。原理的にはそうなるのが自然なのである。

日本は資源が少ない国だと言われる。それならば、背伸びをしないことだ。第一、日本の国民性は獰猛な狩猟民族の残酷性にかなうわけがない。縄文時代から続く融和思想は根底から妥協を潜ませている。譲り合ってこそ上手く行くと端(はな)から思っているのだ。非常な一神教に勝てるわけがない。
古代中国の黄河狩猟民族は稲作民族の「倭人」(テイ人や苗族など)を捕虜にして、神に生贄として捧げてきた。定住民族は優しい、狡猾で残忍な狩猟民族にはどうしてもかなわない。行く末、犠牲となって殺された。

どう転んでも融和民族は狩猟一神教民族にはかなわない。年季が違うのだ。それなら日本人は日本人らしい方策で対抗すれば良い。その方法を考えようではないか。
ガンジイのように徹底的な無抵抗主義で通すのか、敵を作らず交渉技術を磨くのか、連盟主義で国と国の間をすりぬけるのか、いずれにせよ上手く立ち回る方策を立てるべきだろう。
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