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安本美典は「邪馬台国は東遷したか」でこう述べている。

「日本の神話は、ニニギ命の三代あとの子孫神武天皇が東征して、大和朝廷をたてたと伝える。私はこれを邪馬台国の東遷の史実が伝承化したものと考える。西暦280年から290年頃のことである。この頃から畿内大和で、銅鐸が消えてゆき、前方後円墳がおこり、古墳のなかには、九州の弥生文化につながる剣・鏡・玉が埋納され始める」

私もニニギ命は江南からの渡来人であり、その時北九州からニギハヤヒ命が北九州から東遷をはじめ、出雲には天穂日命が降臨したと仮説します。ニギハヤヒ命や天穂日命は銅鐸を携えて進行したのだろう。そして、海人族である安曇氏がそれらの情報を薩摩・日向を支配していた南九州系王朝に全国の海人族が齎した情報を伝えていたのである。
ニギハヤヒ命も天穂日命も、天孫族の天忍穂耳命の子孫であり、同族であることから、神武東征は綿密に企てられた戦略であった。それが三世紀であった。銅鐸の行方や前方後円墳の存在はそのことを実証しているのではないかと思われます。

弥生時代から古墳時代の支配層の存在比率は「新撰姓氏録」から割り出してゆくと、三割を占めるそうだが大方それらの渡来人は朝鮮半島からの貴人で北九州が本拠地であったろう。南九州は江南からの渡来人で特別の存在と思われるが、その機動部隊である安曇族が尖兵として南九州系王朝の斥候適役を果たし、初期においては南九州系王朝を優位に導いたと考えられる。
私はそれが、隼人や安曇族との関わりが深い「久米氏」だと思うが、まだ根拠が不足していて断言はできないがかなりの可能性を秘めていると考えている。もう少し研究の余地があるので、時間が欲しいと思っている。

私は北九州と南九州の関係の接点はイザナギ命の「禊」にあると思う。
禊は後に、誓約を生む。「禊」では安曇氏や天照大神・スサノ王を生む。そしてスサノ王は、天照大神との「誓約」で宗像三女神を創る。
このことは先ず、江南文化が先行し、其の後に朝鮮文化がそれに次ぐ象徴として捉えられないだろうか。だからこそ、神武東征が存在し、その後、大化の改新が行われるのである。(大化の改新は朝鮮文化と漢文化の結実した姿であろう)
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