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嘗て土偶展を観た時から、解説に「地母神」を強調していることに腑に落ちない感情を抑えることができなかった。
今、「民と神の住まい」を読んでいて、そのことがはっきりしてきた。この本の出版の期日が昭和35年である。当然、平成23年の現在では考古学は長足の進歩をしている。川添氏は縄文遺跡についても、かなり古びた見解で語っている。一体に彼の考古学知識は古くその見解は当時の通説に偏っている。
余りにも、縄文時代を過少評価していて、貫頭衣をかぶった狩猟民族の印象を超えていない。BC一万年には大隈の地(上野原遺跡)で定住が確認されている。それだけではない。定石遺跡や連結遺穴は燻製を始めていたし、土偶や耳飾りは宗教的な儀式が行われてた。かなり時代は下るが、縄文中期(BC5000年)の三内丸山遺跡を考えるとそこには考え方としては、近代都市構想と比べて遜色のない集会場や建築物、排水機構、生活の分業化総合的に見てかなり高度の文化水準が存在している。
川添氏は当然のことなのだが、当時の考古学に捉われて縄文時代を描いているのは仕方がないと言えるが、私はそこで感じたのは、帰納法の限界である。科学的思考は事実を分析して結論を出す。二歩先は考えられても、その先は表現するのは難しい。これが帰納法の限界なのである。しかし、何時に世も大事なのは、常識を超える創造力なのである。三歩先の意外性こそ大事な要素であるのだ。

川添氏は残念ながら、一歩先まで到達してはいるが三歩までは考察する創造性にかけた。それは言うだけは容易だが、様々な環境が阻んでいるのだが、網の目のように関係しあっている社会ではその網で生活が成り立っている以上、それを越えるにはかなりの勇気が必要である。
例えば、一つの学派に属しているとして、当然師弟関係が成り立っている。それは有機的であるはずだ。生活も学問の傾向も同じ方向を向いている。それを否定してしまえば、組織も生活も失いかねない。そんな勇気は通常では持ちえないであろう。それは誤りではあるが、理解はできる。

私は成り行きで学派も組織も持たない、素人の民間人である。何を言っても自由であるが、注目もされない。そこが世の中の面白い所で愉快な所でもある。
私は私の創造力に自身を持っている。だからこそ、60の手習いを始めたのであるが、まあ、相対的には遊びの域を超えないであろう。それを覚悟して勉強を進めようと思っている。

横道に逸れてしまったが、川添氏の限界を考えているうちに、「土偶」についての通説が少し偏りがあると気がつき始めた。

縄文時代が「母権社会」であると言うのが通説なのだが、多分それは考古学の遺跡からの判断だろう。土偶や石の遺跡がそう判断させているのだろうが、反面それを製作している側の考察はどうなっているのだろうか。製作者は男であろう。縄文における「土器乃至は土偶」の製作の位置付けはどうなのであろう。それ程容易に土器を製作できたのであろうか。社会的地位はどれ程の影響力があるのだろうか。
私はそこを少し考えて見たいと思う。
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