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安本美典は「日向の襲の高千穂の峰」の「襲」と「會」は同じものであるとされている。
そのほかに「曽於」とかそれに類似した文字があるが、二字の場合、<和銅六年の五月の条に朝廷は全国の国司の役所に、郡や郷の名前や地名は今後、好ましい字で表記せよ>と告げ、「風土記」や他の書物は二字表記になったとして「曽於」などの二字になったと言う。
これは私の仮説だが、「襲」は大和朝廷のなずけた中国風の表示で上位目線の表記で、元々は「會」が本字であったろうと思う。

ニニギ命は天忍日命と天津久米命を伴い、「古事記」は<此地(襲・會の地)は韓国(からくに)に向かい、笠沙の御前を真来(まき)通り・・・>とある。韓国を朝鮮半島の説があるが、會は現在の霧島山の裾野・大隈辺りとすると、そこからは、朝鮮半島は窺えない。韓国は朝鮮ではなく、吉田東伍が説くように、「空虚の地<からくに>」の意味であり、「三国命名勝図会」も韓国岳を「虚国嶽」と云っているように、<不毛な地>とする説や「本居宣長」の<からりと見晴らしのよい>と言う説もあり、あくまで仮説だが、<唐国・からくに>とする説も虚妄だとはいえない。

「會」の解字、<字通>(白川静編)によれば、(そう、こしき、かさねる、かつて、すなわち)の意味。
甑(こしき)の形で、甑の初文、冠の八は湯気のたちのぼる形。噌の声符は會である。

「會」については、大隅地方(現・国分市)には縄文草創期の上野原遺跡が発掘され、そこには連穴土坑、集石遺構、石皿、敲き石、蒸し器(甑)、おおつぼ、耳飾、土偶など定住が明らかで、火を使い運搬、貯蔵、祭祀を行いかなりの高度の文化を示していた。ここで注目すべきことは、蒸し器(甑)を使っていることである。「會」は「甑」に通じ、「會」はこしきの意味もあって、太古から「こしき」が地名になった可能性も考えられる。



そして、安本美典は興味深い文章を記している。少し長いが紹介してみようと思う。

「襲の高千穂の峰」の「襲」は地名ではなく「背(そ)」の意であるという解釈がある。しかし、中国人にみせることも考慮し、堂々たる漢文で書かれた「日本書紀」が「背」の意味で「襲」を用いることは、考えにくい。また、「続日本紀」には、元明天皇の和銅三年の条に「日向の隼人、會の君、細麻呂」とあり、聖武天皇の天平十三年の条に、「會の君、多理志佐」とある。「続日本紀」の考謙天皇の天平勝宝元年の条にも、「會の君、多理志佐」の名が見え、この条では、「會の県主、岐の直、志自羽志」と云う名もみえる。
これから、「続日本紀」の「會」が隼人の国、つまり、日向の国から分かれた大隈の国、現在の鹿児島県の地名であるとみるべきである。とすれば、「続日本紀」の「會の峰」の「會」も地名であるともいるべきである。そして、「古事記」が「熊會」と記すものを「日本書紀」は「熊襲」と記している。
古代において「會」と「襲」が通じていたことも動かない。「襲の高千穂の峰」の「襲」は「會」であり、それは隼人の国、現在の鹿児島県にあった。

「古事記」「日本書紀」の古い時代の記述では、九州の南部の呼び方としては、主に「日向」が用いられている。「記・紀」では、のちの大隈の国にあたる地域は、「襲」とも「大隈」とも読んでいる。「襲」の呼び方はやや古く「大隈」の呼び方はやや新しいようである。
「日本国郡沿革考」は上古、大隅の地を「襲国」と言ったとする。
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