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土偶関係の書籍を数冊読む中で、土偶が一種の呪術的なオブジェであり、耳飾りと切り離せないことが解かった。それは南洋の海人族が齎したもので、南九州は縄文草創期から、その影響を受けていたのが判明した。

鹿児島・上野原遺跡は土器でも独自な形態を示し、貝殻文の円筒土器で、他の縄文土器の丸底や尖底のように動物性食物との関係で火を摂取し易い構造ではなく、植物性食物を保存、運搬に適するように造られている。そのため、大壺や大きい土器が作られ、石皿や敲き石、磨石などが出土される。
勿論、一万年前から定住がされていて、集石遺構や連結土坑は(動物性食物の燻製装置)として開発され、二筋の道路は交通、水はけ、給水のために開発されている。

通説は縄文文化は北から南に移行したと言うのであったが、それ以上の文化が南九州には存在していたのである。
因みに、同時代の遺跡で、野間半島にあるかこいノ原遺跡は「かこいノ原丸ノミ式石斧」が出土していて、上野原遺跡と同様に集石遺構や連結土坑も見られ、定住がなされていたのではないかと思われていたが、そこには竪穴式の住居が見られなく、推測ではなるが夏用の居住地か造船のための居住地ではなかったかと思われる。と言うのは丸ノミ式石斧は丸木舟の製作に使用されたと思われろからである。

野間半島から沖縄諸島までの海洋領域には「かこいノ原式丸斧」文化圏が形成され、船での航行や交易が行われていた形跡が見られるからである。
そのことを考えると、鹿児島を核にして広範囲の海洋族の存在が明らかになる。

これは私の推測だが、彼等は黒潮や対馬海流の流ればかりではなく、北からのリマン寒流やその枝の流れをも知り尽くしていたともいえる。
それは、種子島の大園遺跡から縄文晩期ではあるが、東北の亀ヶ岡土器(大洞おおぼら土器)が出土していることからも解かる。
つまり、縄文時代の南九州は我々が考えている以上に、高度の文化形成がなされていたと言える。

それが6300前の鬼界カルデラ大噴火によって壊滅的な打撃を受けて、消滅したことになっている。しかし、南九州は薩摩火山噴火や桜島噴火と大噴火を経験していて、その種族的伝承や対応措置は織り込み済みであったと考えるのが自然だろう。現代でも長崎の噴火では、犬が火砕流を避けて生存していたという。縄文人は私達には考えられない嗅覚があったであろうことは推測できる。
彼等は海洋族である。黒潮に乗って、移動して彼等の高い文化を伝播して言ったはずであるし、その一部は故郷に舞い戻って、その文化を伝承したに違いない。

NHK出版の「日本人はるかな旅」にはこう記している。少し長くなるがお知らせしておこうと思う。
「・・・南」九州が発祥地といわれる「連結土坑」(燻製施設)が鴻野木遺跡(三重)、浜井場遺跡(愛知)、匂坂中遺跡(静岡)、関東と黒潮の沿岸に伝わっていることが解かった。また、東京多摩ニュウタウン遺跡(4500年前)にも、南九州の人々が作りだした「磨製石斧」が発掘されている。
と記載している。

これは6300年前の鬼界カルデラ大噴火から逃れた南九州の一族の末裔が伝えた文化ではないだろうか。
私は古代の南九州の文化を高く評価している。それは、會族や隼人が野蛮な種族ではないことの証である
。ニニギ命の天孫降臨の歴史的状況はここから始まるのである。

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