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私は少し、安曇氏から離れて、その原郷の呉と越の成り立ちと時代的背景を考えてみたいと思います。諏訪春雄さんと言う人の著作を中心にそれを述べてみたいと思います。「呂氏春秋」「漢書」(顔師古注)等によりますと、「百越」として、越人が現れます。
「漢書」には「交址(べトナム)から会稽(かいけい)に到る八千里の間に、百越が入り交って棲み、それぞれに違った姓を持っていた」と述べています。
会稽には中国東南部・長江南側の地に広がって越人は居住していた。
「周礼」「逸周書」「路史」等の古文書には、百越は於越(おえつ)、南越、句呉、駱越(ろうえつ)蛮楊(ばんよう)欧人(おうじん)目深(もくじん)夜郎(やろう)と呼ばれる種族がいた。(そして、朝鮮半島の南部や日本列島の倭族もこの越人である可能性が高い)
百越の民は新石器時代晩期(BC5000年)からそれぞれの地に土着していたと言われている。(壮族通史・広西主出版)しかし、中国に商や周王朝が出来ると、その勢力圏に取り込まれて行き、春秋時代を経て、秦や漢の統一国家が台頭すると、百越の民もその支配下に入って行く。
そして、その一部は台湾や朝鮮、日本列島へ渡った可能性はある。しかし、BC八世紀に犬儒(けんじゅ)の侵入を受けた西周が滅んで、春秋時代には呉・越が台頭してくる。
呉越は共に古代越人が建てた国だと言ている。
越は今の紹興の地を勢力圏に持つ於越(おえつ)がBC七世紀に建国しています。
呉は句呉(くご)が建国したとされ、その祖は周から亡命した太伯だと言われています。
太伯は周の古公たん父(ぼ)王の長男だが、王が三男の李歴を皇太子にする意を汲み、暗殺を恐れて、次男の仲擁(ちゅうよう)を連れて、句呉に逃れ、文身・断髪して句呉に永住したと言う。
呉はBC743年に越に滅ぼされ、人々は朝鮮半島や日本列島へと亡命したと思われます。「晋書」や「梁書」(りょうしょ)によれば、中国に朝貢した日本の倭人が自らを太伯の孫と言い、室町時代の禅僧・中厳円月が「日本紀」の中で神武天皇は呉の泰伯(たいはく)の子孫と語っているのも、呉の渡来があったとの証明であろう。
BC334年には越も楚に滅ぼされ、朝鮮た日本へと亡命したのも考えられることである。
私はここで滝川政郎の説の真憑性が確認」されたような気がする。


ここで、私は愚論を述べてみたい。
私は古代史に執着してから二年ほどしか学んでいません。ですから、読み落としていることは十分考えられますが、今まで学んだ中では江南の中の「越」について疑問を投げかけられた人はおられなかったようにおもいます。
私は漢字における言霊を信じております。
その伝(でん・つてえ)でゆきますと、「越」は<馬に乗って、斧を振るう様>と言います。又、越人は自らを僕莱(僕はサんズイが入ります)と名乗り、それは神の僕(しもべ)の畑作農民の意味にとれます。いずれにせよ、それらは江南流域の水稲・漁労民族にはそぐわない文字だと思います。どちらかと言うと、黄河流域の畑作・狩猟民族の臭いがします。
「越人」は黄河流域から長江流域へ移動して先住民族と混血したのではないでしょうか。むしろ、私には「呉」のほうが江南の臭いがします。
仮説ではありますが、「百越」の祖は苗族ではないかと推察します。越人は北方より長江流域に移動して、先住民である苗族と混血し、支配的だったのが、越人だったので「越」の名称が残ったとするのが自然だと思います。
何やら安曇族と隼人の関係に似ていると言えば似ているような気がします。




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