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神武東征についての考察は私にとって、大いに興味ある史実である。現人神である天皇の意味は、日本人にとっては大いなる関心事であろう。
その初代天皇は・神日本磐余彦天皇がどのような形成過程にあるのか私は手探りで解明を始めたわけである。正直に言うと、私はその姿勢を反省している。
学習を始めると、その広さ、深さに驚いている。先ず、「古事記」と言うわけで、無防備に取り組む姿勢は無謀であった。
学んで、四年目、「古事記」と「日本書紀」の性格付けは、おぼろげながら解かってきた。それは二つの文献を編んだ識者の目的意識の違いであろうが、明らかにその視点に相違が顕著である。浅学のため、断定はおこがましいが、敢えて言えば、「古事記」は<帝紀及び上古諸事>の伝承を礎に天皇の系譜を表わそうとしているように見える。一方、「日本書紀」はその政治的意図が明白で、その背後に編者の正論が時折、顔をみせるのが解かる。多分、それは、藤原不比等と思われるが、別のところでその解明をしなければならないと考えてはいる。
今、私は「古事記」を中心に神武東征の意味を考えてみようと思っている。勿論、神武東征を解明するのは、そのル~ツである「天孫降臨」を端初としなければならない。
「古事記」では、降臨に際して、五伴緒・天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命に八尺勾玉、鏡、草薙剣を添え、思金神、手力男神、天石門別神を伴い降臨させている。

それに続き、「古事記」では次のように述べている。
「故、ここに天津いて、日子番能邇邇芸命に詔たまいて、天の石位離ち、天の八重たな雲を押し分けて、イツのちわけて、天の浮橋に浮きじまりそりたたして、筑紫の日向の高千穂のくしふる岳に天降りましき。故、ここに天忍日命・天津久米命二人、天の石ユキを取り負い、頭椎の太刀を取り佩き、天杷弓を取り持ち、天の真鹿児矢を矢挟み、御前に立ちて仕へ奏りき。故、その天忍日命、こは大伴連等の祖、天津久米命、こは久米直等の祖なり」と。

ここで問題なのは筑紫の日向の高千穂のくしふる峰である。私は九州の高千穂にある襲(會)の地と解釈します。そこから五伴緒、三種の神器などを天忍日命と大津久米命が先導して、野間半島の笠沙へと向かうのです。
「日本書紀」はどうでしょう。
「一書に曰く、高皇産霊尊、真床追衾を以って、天津国光邇邇芸尊にきませまつりて、即ち天磐戸を引き開け、天八重雲を押し分けて、降したまわる。時に、大伴連の遠祖・天忍日命、来目部の遠祖・天くし津大来目を帥いて、背には天磐ゆきを負い、ヒにイツの高鞆をつけ、手には天はじ弓、天羽羽矢を握り、八目鳴鏑を副持へ、また頭槌剣を帯きて、天孫の前に
立ちて、遊行き、降来りて、日向の襲(會)の高千穂のくし日の二上峯の天浮橋に至りて、浮渚在之平地に立たして、そししの空国を頓丘から国まぎ行去りて、吾田の長屋の笠沙の御前に到ります」

ここで「古事記」と「日本書紀」で異なる点は天忍日命と天津久米命の立場でしょう。「古事記」は二人の命は同等の立場であるのに拘わらず、「日本書紀」は来目部を天忍日命の臣下としています。これは重要なことなので、どちらが正しいか見極めなければならないでしょう。

一体に「古事記」は神武東征の条りにも見られるように、久米氏と神武天皇の関係は良好で、むしろ久米氏は重臣の趣がある。「久米歌」もそうですが、安曇目の久米氏が大和の豪族の娘・比売多多良伊須気余理比売を皇后に選定し、血縁させています。このことは、久米氏が限りなく神武天皇に近い存在を表わしているといえましょう。明らかに、重臣であることを示しています。しかし、「日本書紀」ではやはり、久米氏は大伴氏の従臣で、専ら、道臣命(大伴氏の系譜)が活躍しています。神武天皇の大和入りを道臣命が久米部を帥いていると、記しています。
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