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私は以前、「日本書紀」は政治的な意図があると述べましたが、「続日本紀」大宝二年十月三日条、これより、薩摩の隼人を征討する時、大宰府管内の九神社に祈祷したが、実にその神威のお蔭で、荒ぶる賊を平定することが出来た。とし、また、和銅七年(714)には、大和朝廷は肥後国より肥君、五百木部氏、大伴氏を薩摩の出水郡と高城郡(現・川内市)に200戸を移住させ、隼人を歓導し、薩摩隼人と命名して服属させている。

これらの記述から八世紀前半には、大伴氏は大和朝廷の主要な氏族であり、確かな地位を占めていたと言えよう。久米氏はこの頃には、衰退したか、失脚したことを示していて、その名を主要なところで見られない。
その反映が「日本書紀」であり、「古事記」は久米氏においては、それ以前の神武天皇との良好な関係を表わしていたといえよう。

仮説に過ぎないが、、初期王朝は薩摩から興っていると私は考えている。勿論、北九州にそれと同等の勢力があったと言えますが、北九州の勢力地図は複雑で、中国系渡来人、朝鮮系渡来人は百済と新羅の系譜が先住民とのかかわりで、数多くの豪族集団を形成している。それらを総合する強力な勢力は存在していなかったと言える。
それらのうちに有力な勢力が邪馬台国であり、ニギヤヤヒとその命を首長と仰ぐ物部氏であったろう。その他多くの国々が群雄割拠して、騒然としていたに違いない。

その中で、いち早く北九州を脱したのが、ニギハヤヒ命の集団で、天忍穂耳命は血統の関係から、同族同士の血で洗う争いを避けたのかもしれない。後に、神武天皇が東遷する際に塩土老爺に「大和にニギハヤヒ命が降りている」と認識していた。それは海人族の長としての塩土老爺の伝達が予めあったと思うが、血族としての情報が優先していたと
思う。

いずれにせよ。北九州の豪族がひしめき合う地帯よりは、南九州は襲(會)族を中心とした同族種族の集まりで、縄文時代から弥生時代にかけては南九州の方が文化的には高い水準にあって、大隅地方の襲(會)族を中心に野間半島の海人族としての襲(會)族連携を保っていたといえる。それは期せずして「天孫降臨」の日向の高千穂の襲(會)からニニギ命が直ぐに野間半島の「笠沙」へ行っていることからも知れる。

また、偶然とはいいかねる大隅地方の上野原遺跡(紀元前一万年)と同年代に現れているかこいノ原遺跡の近似性の存在は、語り部・大歌所の巫女達の伝承の記憶かも知れず、一考を要すると考える。

上野原遺跡は集合遺構は火を使い肉や食物を蒸しているし、連穴土坑は燻製製品を作り、配石炉、竪穴式住居、大型筒製土器、石皿、敲き石、土偶、耳飾、それに泉に下る、排水溝をかねた道筋が二本、整備されている。明らかに、定住を意図した集落である。定住は文化を高める一つの要素で重要な要因である。
笠沙の地である現・加世田市(加世田は笠沙の田の訛りである)で発掘された・かこいノ原遺跡もまた、「上野原」と同じ遺跡が出土しているが、不思議なことに竪穴式住居が見当たらない。その代わりに、「かこいノ原」からは丸ノミ式石斧が出ていて、そこでは丸木舟を製造された形跡がある。(驚くことに、一万年前である。人間の知恵を考慮すれば航海・交易の可能性は限りない)
この丸ノミ式石斧は大隅諸島・トカラ諸島、種子島から沖縄へと連なる海人族的文化圏が構築されていて、かなりの航海・交易も行われていたと想像される。
黒潮の存在を勘案すれば、笠沙と長江沿岸との交流は大いに可能性が考えられる。島伝いの可能性は更に、交流が数多く行われた証左に為るだろう。

「會」について一言、言語の権威・白川静先生の「字通」に掲載された見解を記そうと思う。
「會」には<むかし>と言う意味もあるが、白川先生は「會」は<甑・こしき>に通じると述べておられる。<甑>は蒸し器のことで、上野原遺跡から出土した集石遺構は蒸し器である。この偶然は偶然なのであろうか。ひょっとすると、朝廷の大歌所の巫女の「神語り」や「天(あま)語り」にその伝承が伝えられていたのではないか。また、「風土記」収集の過程で古老や語り部の伝承に、「會」の伝承を知っていた可能性を否定できない。「會」は蒸し器を象徴していると言うのは穿った見かただろうか。

BC473年に、江南・呉国は「越国」の勾践に滅ぼされ、南九州・野間半島に亡命したことはありえることである。滝川政次郎教授は「猪甘部考」で江南より北九州に漂着したのが、安曇氏で、南九州に着いたのが、隼人族だと述べられているが、それは教授の錯誤で、「隼人」は<襲(會)族>の後裔で先住民族である。南九州に着いたのも、やはり、「安曇族」であったろう。
この事実は、天孫族、つまり海人族の(襲・・・會)から野間半島の笠沙への移動という意味で(天<あま>は海<あま>に通じる)、江南からやってきたのは、ニニギ命といった想定は可能性として成り立ち、それにつれて多くの臣下を伴ったという想定も成り立つだろう。天津久米命、つまり久米氏が呉国からの亡命貴族を随伴してきたと言う説話もこのような記憶から書かれたのではないかと推定している。
私は加世田市から発掘された上加世田遺跡の「久米」刻んだ土器片の出土を重く見ている。加世田市は「笠沙」の地であり、「かこいノ原遺跡」の地である。当然、薩摩の海人族の居住地でもある。そのことを勘案すると、「久米氏」の定住が見えてくる。しかし、その後、久米氏の名称は南九州の加世田から聞こえてこない。これは推定でしかないが、先住民・隼人との血縁が久米氏の氏姓を消したのではないかと推定される。女系の姓名がそれを隠したのではないか。しかし、これはあくまで推定で実証は出来ていない。今後の課題でもある。

ただ、天孫族と言われる二ニギ命は大山祇神の娘・吾田鹿葦津姫との間で彦火火出見命を生み、その血を混合させてゆく。歴代、皇孫は地元の女を皇后として向かえ、先住民との血縁を重ねて、神日本磐余彦天皇(神武天皇)へとたどり着く。それは女性を伴わない渡来民の亡命者の宿命であろうか、先住民との融和を図るにはそれが有効な武器なのかもしれない。当然、それに随伴した臣下もまた、同様に先住民との血縁を行ったであろう。そして、先住民と渡来民の種族を形作っていったと思われる。

史実には、安曇氏と久米氏が顔を現すが、両氏の職掌はかなり類似性が認められる。天皇の側近であり、膳手(かしわで)であるのは、皇族との関わりが親近感が濃厚で信頼性も厚い。特に、大久米氏と神武天皇との主従関係は天皇の后妃をも左右している。
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