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「史記」は呉の太伯を記述している。

「周の大王(古公壇父)には、三人の継承者がいる。長男は太伯、次男は仲擁、三男は李歴である。李歴は優れた人物であった上、その子の「昌」は聖徳があった。大王は李歴を後継者にして、のちその子の「昌」を押したかった。太伯と次男は父の胸中を推し量り、荊蛮の地に落ち延び、文身・断髪して従属を表した。太伯荊蛮の地に亡命すると、この地を「句呉」と称した。荊蛮の民は太伯の義を慕い、太伯に従う民は千余戸に及び、彼を王として、「呉」の太伯となずけた。

また、上野武は「倭」と「太伯」の関わりを<日本の古代、倭人の登場>でそれを付加している。
「魏略」の記した太伯伝承は正史である「晋書・四夷伝倭人」で文身習俗の記事とともに「自からを太伯の後」として、その後「梁書」「北史」にも受け継がれた。さらに、宗末元初の歴史家・金仁山(1232~1303)が「通鑑前編」で<日本いう、呉の太伯の後なりと、けだし、呉亡(ほろ)んでその支庶(人達)、海に入って倭となる>と記したように、中国人にとって倭人は太伯の後裔とするのは常識だったと見てよい>と述べています。

さらに、南北朝の禅僧・中厳円月(1300~75)が1341年に著わした「日本紀または日本書」で神武天皇は呉の太伯の後だと説いている。
円月は朱子学も学び、自説を検証するために七年間、江南の寧波に渡り修学している。しかし、「日本紀」は当時の朝廷の信を得られずに焚書の憂き目に遭っている。江戸時代の林羅山はそれを惜しみ、世の中に「神武天皇論」として、公表している。

「東山僧・円月、かつて日本紀を修す。朝議協(かなわ)ずして果たさず、遂に其の書を焼く。余、ひそかに円月が意をおもうに、按ずるに諸書、日本を以って呉の太伯の後と為す。それ、太伯、荊蛮に逃れ、断髪文身し、交龍と共に居る。その子孫、筑紫に来る。おもうに必ず時の人、以って神とならん。これ天孫、日向高千穂の峯におりるの意か。当時の国人、疑いてこれを拒(ふせ)ぐ者のあるいは、これ有るか・・・・」と記述している。

林羅山の説は代々、息子・鵞峰、孫鳳岡(ほうこう)に世襲され、林家の家学として伝えられている。
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