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意識して古代史を読み始めたのは四年前からである。それまで私はユングの神話の研究に刺激されて、聖書やアフリカやマヤ、東南アジアの神話、勿論、日本の「神話」や「民話」、中国の神話について本は読んでいた。

古代史の読書量が増えるに従い、古代史の範囲が広く、深いことが解かってきた。

古代の理解が進めば進むほど、日本人の思考や習慣の根底には多神教(アニミズム)が脈々と横たわっているのが解かる。世界は聖書の思考・哲学が主流を占めている。俗な言い方をすれば、砂漠で遊牧の思想は個人を主体とする飢えの思想である。砂漠の中では獲物は命と交換するほど過酷な運命を背負っている。そこ行くと、日本列島は青々した森林とそこに育んだ清冽な川と行き着く先の豊穣な海に囲まれた素晴らしい、どこかの腹痛首相の言う「美しい国」(それを維持するなら原発は一番先に否定するはずです)とは違う「美しい国」が横たわっています。何と恵まれた国民でしょう。

あれかこれかの選択しよりあれもこれもの世界で、二人の狩人が森で鹿に出会ったら、先に見つけた狩人がそれをとるでしょう。遅れてきた狩人は相手を殺すこともなく、次の獲物を目指します。獲物はまだ、森の中に存在します。そこが貧しい遊牧の思考とは隔絶の差があります。

その根源は黄泉の国と葦原中国を一つの国として考える素晴らしい弁証法的な発想があるからです。
我が天孫の祖・天照大神は思えば、イザナギ命の禊から生まれて着ました。これは見逃してしまいますが、黄泉に穢れから生まれたと言えます。(スサノオウの目は本質的には禊をしても黄泉の穢れを沁み込ませています)西欧の弁証法は合理性を一とします。野暮ったく言えば、正・反・合の図式です。明らかに「個」に還元します。しかし、日本(倭・和)は正と反を矛盾したまま止揚します。駆逐された反の欠片を残したまま統一します。これを融和と言いますが、統一は不完全で、ここに多神教独特のすべての神々を認める柔軟性を認めます。多分、谷川健一師の言う「意識の連続性」とはこのことを言うのだと思いますが、本当に素晴らしい哲学です。豊かな民族が持つ豊かな思考であると思います。
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