上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2012.09.16 古代史覚書3
ニニギ命が日向の高千穂の襲から野間半島の笠沙への先導役に天津久米命(久米直の祖)の行方を追っているのだが、神武天皇の久米氏の活躍以外、主だった舞台を私は知らない。
史実として、縄文晩期の上加世田市から出土した「久米」を刻んだ土器片のほか頼りになる情報がない。加世田市は笠沙に違いなく、そこでニニギ命と吾田鹿葦津姫は邂逅している。吾田は海人を意味し、隼人族の名称でもある。滝川政次郎教授は隼人族を江南からやって来たと説くが、隼人は南九州加世田市に土着していた海人種族(多分、會族の分派であろう)で、江南からやって来たのは、滝川教授も北九州に着いたとされる安曇族であったと思われる。安曇族もまた南九州では、その軌跡が皆無の海人族で何やら久米氏と似たところがある種族ではある。
私はこの野間半島(笠沙)を廻って、久米・安曇・隼人が微妙な関係があるような気がしてならない。

「今昔物語」には久米の仙人の伝承があり、龍門寺と言う寺で仙人修行を安曇氏と久米氏で行う、とある。このことは久米氏が安曇氏と同族かごく親しい関係にあった事を物語っている。(扶桑略記には、もう一人大伴氏が加わる)
これは「天孫降臨」の伝承に繋がるが、そこに安曇氏が顔を覗かせるのが興味深い。

職掌もこの海人族は軍人・膳手(かしわで)・俳優(わざおぎ・呪術者)と似たところが多い。何やら同族の臭いがしないではないが、それを結びつける根拠が見つからない。私のこれからの課題かもしれない。

久米氏については幾つかの説がある。隼人説、大伴氏説が有力な説だが、四世紀まで久米氏が勢力を持っていたが、五世紀になると大伴氏が台頭してきて、久米氏は衰退の一途を辿ると言う。その際、大伴氏は久米氏の仲から頭角を現したという。「古事記」は<久米氏>を優位にとるのは地方豪族の活動が著しく「壬申の乱」の影響を強く受け、「日本書紀」大伴氏を上位に採とのは専制的な律令政治の完成期である「奈良朝初期の風潮」をより強く受けていることに起因する。

「日本書紀・補注(巻第二)二十六、久米部は四国・中国地方を中心に、一部は東海沿いに分布。各地に久米郷などの地名、特に、伯き、美作、伊予に久米部がある。

名称の大伴はどうやら、その名前の意味から考えると、その氏名に始原性が窺われない。大伴の伴には名門としての発祥性が感じられない。大伴は部民としての首長の意味だろうが、どこかの地方豪族に仕えた有能な武将なのであろう。大嘗祭では久米舞のパ~トナ~に佐伯氏を従えているが(大伴氏が琴を弾じ、佐伯氏が太刀を振るって土蜘蛛を退治する舞いだそうである)、両者には従者の頭の臭いがする。その意味では、嘗ては大伴氏の主人は久米氏であっても辻褄はあう。

久米氏が隼人とする説は、滝川政次郎教授の「猪甘部考」で述べられた江南からよってきたのが隼人であると言う主張に、「天孫降臨」の際、笠沙に軍人として先導した事とが重なる印象を両氏が同族であるとしたことから名ずけられたのであろう。

「加世田」のこの地は古く「万瀬川の河口域」の「潟湖」と想像される岸辺の上にあり、「潟」を囲む「東700米」ばかりの所「上加世田遺跡」が、北1キロ程の所に「かこいノ原遺跡」が、西1・5キロ程の所に「笠沙の宮跡」が知られている。「阿多郡」の域なのである。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://nigihayahi91.blog65.fc2.com/tb.php/499-244f2000
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。