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「大日本地名辞書」(吉田東伍)
<笠沙が訛って、加世狭となり、加世田となった>
<今の野間岬がこれである。天孫が留まり住んだ址とする。野間岳に野間神社(野間岳神社)があり、天孫の事跡が残っている>

「古事記」
<此地は韓国に向かい、笠沙の御前を真木通れりて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり、故、此地は甚吉き地と語りたまひて、底津石根に宮柱・布斗斯理(ふとしり)、高天原に氷ギ多迦斯理(ひぎたかしり)て坐しき>

「日本書紀」
<日向の襲の高千穂峰に天降ます。既にして皇孫の遊行(いでま)す状(かたち)はくしふるの二上の天浮橋より、浮渚在平(うきじまりたいら)に立たして、ソシシの空国(むなくに)を頓丘(ただおか)から国まぎ行去(さ)りて、吾田の長屋の笠狭崎に到ります>

「吾田」について(大日本地名辞書・吉田東伍)
<吾田国。薩摩国の旧名称である。日置、鹿児島、川辺、揖宿などあり、その地形は半島をなす。したがって、この半島を吾田半島と称すべきであり、その西側の港湾を吾田湾と称すべきである。吾田の名は最も古い>

<吾田隼人は隼人の中の信望のある一族であって、皇孫に奉戴して、隼人の中で君長をなしていた。・・・・古くは阿多と薩摩とは、そのさす所が互いに通じていた。吾田の地名の拠点は、はじめ笠沙の辺りにあったことを思いいたるべきである。阿多と薩摩は、両地を対象して用いられた例がなく、同じ場所を阿多または、薩摩の名で呼んでいる例だけがあるから、薩摩の本拠も吾田国のほかではない>

「和名抄」
<薩摩国阿多郡阿多郷とある>

「日本書紀」
<阿多、吾田国、鹿児島西部の古称・・・・唱更国(はやとのくに)、ついで薩摩国と命名され、大隅国のように、国名として残らなかった>
「続日本紀」大宝二年九月十四日条(702)
「これより以前、薩摩の隼人を征討した軍士にそれぞれ功績に応じて、勲位を授けた」とある。
これはこれから以後、薩摩国が建立する年でもあった。薩摩隼人が大和朝廷に服属したのである。また、和銅六(713)に「日向の国の肝属・曽於・大隅・姶羅、四郡を割りて、初めて大隅の国を置く」とあり、これより大隅隼人が朝廷に服属を始める。しかし、大隅の會族はさらに抵抗を続け養老四年(720)には、大隅国守・陽候史麻呂を殺害して、抵抗を続け、太平十二年(740)の藤原広継の乱に會君・多理志佐が朝廷側に就いて終息する。

「続日本紀」によると、大宝二年(702)肥君・五百木部・大伴氏が薩摩の出水郡、高城郡(現・川内市)に大和朝廷から200戸移住させられている。また、和銅七年(714)に豊前の国から200戸、大隅へ隼人を恭順させる為、移住させられている。

<肥前国風土記>
姫社(ひめこそ)の郷(さと)について、郷に山道川(やまじかわ)があり流れて、御井の大川に合流する。その川の西に鬼神がいて、通行人を半分殺した。そこで筑前国・宗像郡の可是古(かぜこ)が占い(旧事紀には物部阿遅古連とする)、機(はた)を立て風によって落ちた所の女神を祀れば、通行人は殺されないですむ。と宣託する。それを実行すると、通行人に危害が及ばなくなった。

それは物部氏の起源伝承でもある。つまり、宗像信仰は新羅の信仰でもあり、物部氏が新羅の渡来人とも言える。
そうだろうか。少々疑問である。物部氏は北九州の先住民であるとする説もあり、更なる考察が必要であろう。

機を立てる習俗は朝鮮の「蘇塗」の習俗と関わりがあると言われています。
「蘇塗」とは、神聖な特別な邑が設けられ、そこでは大木を立てて、鈴鼓を掲げて、鬼神につかえる祭りを行う儀式である。
それは大木は天上・地上・地下を結ぶ宇宙的依り代であることである。それは日本の神々にも言えて、天の神々は大木に付き、その木に依り代する。それは縄文時代からの樹木信仰の継承で、三内丸山遺跡の櫓・巨木、出雲神殿の巨柱、吉野ヶ里遺跡の巨木、諏訪の御柱祭、伊勢の心の御柱などから窺われる。
ただ、機(はた)を建てることは、布を織る行為を伴うが、朝鮮において養蚕の習俗が少ないような気がする。その点が気がかりだが、「蘇塗」の習俗は姫社(ひめこそ)の伝承に関りがあるかもしれない。

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