上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
政党乱立を見ていると、混乱期には我々は留まるところ、意見が多数にわたる。これは単なる現象ではなく、我々の深層意識に関わることなのだ。アニミズムは古来、我々の信仰する紙魚のような意識としてこびり付いている。「倭・和」こそ我々が空気のように心にこびり付いている自然な観念なのである。西欧人はアニミズムを過当な宗教の始原と言う。しかし、民主主義の根本は対話なのだ。彼等が幾世紀かけてたどり着いたダイアログ(対話)は日本人が古来から身に着けていた哲学である。「和」とは大いなる「妥協」で清濁併せ呑んだ末の決断と言える。この哲学的妥協こそ「平和」に通じる優れた行為である。最悪、話し合いの終結が争いに発展するが、西欧の合理的判断とは異なり、秩序ある争いなのである。

愚かな米国追従主義者が二大政党制などと言う不自然な選挙制度を定着させようとして、小選挙区制を設定してしまったが、このような制度は必ず破綻をきたす。それは我々の深層心理の中に多神教の観念が沁みついているからなのである。数千年かけて、母系の隠れた思想形態(古事記・日本書紀に現れる母系の先住民の血の継続はそれを物語っている)は築かれてきた結果、我々は古来より「真の和」を隠す習慣を養ってしまってきている。
我々は真の民主主義者であり、二大政党制などと言う浅薄な観念で統括されない、強靭な対話の民族なのである。私は今度の政党の混乱を見ていて、嘗て私が小選挙区制に反対したように、国民性を鑑み、多党制の選挙制度を見直すべきである。進歩は緩やかになるが、それが民主主義というものだろう。「真の対話」こそ真の近代国家の理念なのではあるまいか。

因みに、ギリシャからドイツ観念論・へ~ゲル、資本論の著者・マルクスの方法論は弁証法である。弁証法の本質は「対話」である。弁証法とは関係の哲学であり、単一の哲学より進んだ多数の哲学である。
私と言う存在は、他人があるから認識されるのであり、両親があるからこの世に存在する。時間と空間をそうして認識する方法は、日本人が縄文時代から自然と見に付けている、信仰に近い観念度だと私は考えている。

若い頃、新日本文学会で花田清輝の講演があり、花田が「矛盾を矛盾のまま止揚する」」と述べていた。その頃はその意味が解からずにいたが、今は、花田清輝の素晴らしさが理解できる。何と、日本的な発想であろう。西欧的な合理主義ではなく、多神教的な混沌を明快に論理化した。私は現代の混沌とした世界を救済出来る卓越した論理だと思う。

スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://nigihayahi91.blog65.fc2.com/tb.php/544-a59a3d40
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。