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太安麻呂が712年に「古事記」を書いたとされているが、太氏は「古事記」に反映されている大歌所の大歌師を任じていて、後宮の巫女を統括していたとされる。
その太氏(多氏)の祖は神武天皇の次男・神八井耳命である。神八井耳命は弟の命(スウゼイ天皇)に皇位を譲り、自らは祭祀を司った。つまり、弟を補佐する司祭を任じたことになる。代々太氏はその祭祀をたまわる氏族であった。太安麻呂が「古事記」に名を連ねるのはそういう経緯があるといえる。
ただ、当時、太安麻呂は民部省に藤原不比等によって抜擢されていて、「古事記」編纂に従事する余裕はなかったとされる。それが「古事記」を疑いの目で見られる原因になっている。又、稗田阿礼が猿女君の末ということで出来すぎの感があり、その疑惑に拍車をかけている。
大和岩雄によると、古事記には「現存古事記」と「原古事記」があり(その他、一古事記・多氏古事記等がある)、「古事記」と名の付くものは九世紀に多朝臣人長(おおのあそんひとなが)が作成したとする。その台本になったのが「原古事記」だと大和岩雄は述べている。
私は大変興味ある説だと思うが、神武東征と言う視点から、「古事記」の天孫降臨の際の笠沙への先導が天忍日命と天津大久米命によっている説話は両氏が同等であるに拘わらず、「日本書紀」では天忍日命にの臣下とされている。大和説よると、「日本書紀」のほうが正しいということになるが、「続日本紀」などによると、八世紀始めには、薩摩の隼人征伐には大伴氏が参加していて、政治的な意味合いから「日本書紀」の記述になったと思われ、「古事記」の記述の方に真実が窺われる。どうも「古事記」にもそうした混同があり、大和説が全面的に正しいとは思われない。
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