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どうもこの「つぶやき」はそれはそれなりに、ためになるのだろうが、細切れの現代的な良くもあり弊害の多い制度のような気がする。それなら長い文章を書けばそれで済むと言う意向もあるだろうが、粘り強く事に取り組む姿勢が軽視される時代ではどう対処していいのか迷う所である。

倭について私が問題にするのは、苗族が黄河域に居住していた頃、黄河族に侵略され、様々な地域に拡散して行く、その一派が長江流域に居住し「呉」や「越」の民族を発生させる。この「呉・越」が大和(やまと・おおわ)との関りが濃厚なので、確かな認識を持っておく必要があると思うからである。

先ず、白川静師の「辞通」による文字の解釈から始めようと思う。

「越」が大和との関わりが強いといわれる知識者が多いため、その語源を知っておかなければならないだろう。「越」とは馬に乗り武器をかざして走る様とある。この解釈での印象は明らかに狩猟民族としての名称である。と言うことは、その始原は江南より黄河の狩猟民族にその初めがあるような印象がある。多分、黄河に居住していた狩猟民族が何らかの理由で長江中流域に移動したことがその「越」にこめられていると、解釈する意向は考えられることである。

では「呉」はどうであろう。その文字は、神に祝いの言葉を入れた箱を持ち踊り神を称える様といわれる。それは呪術者の様を思い起こされる。この状態は狩猟・漁労民族、双方に見られる形態では有るが、私は神功皇后の三韓征伐の際、住吉大神の神託により安曇磯良を呼び出す時の、磯良の現れ方が磯良舞を踊りながら現れる呪術的現象に酷似していると、思われることが何等かの関連が考えれれるからでらる。
私は「呉」の呪術者と倭(和)の海人族との関係に影響を及ぼしてと考えている者なので、その一考として理解している。と言うのは、「晋書」や「梁書」に見られる、倭(和)の朝献した太夫(官僚)が自らを「呉」の「呉」の太伯の末と認じている伝承にもよる。また、鎌倉時代の円月と言う朱子学を学んだ禅僧が「日本紀」で神武天皇は太伯の後裔と書いた事実も「呉」を日本の皇族との関係を明示した記述をも考慮に入れなければならないであろうと思う。

滝川政次郎は「猪甘部考」で江南からやって来た種族で北九州にやって来たのが安曇族で南九州に辿り着いたのが隼人族だと説いている(私は概ね賛成だが、しかし、隼人は薩摩の先住民族・曾族の後裔だと考えている。・・・その点では中村明蔵師の説を支持する・・と言うことは南に着いたのも安曇族の分派<多分、久米族であろう>とする)

と言うことで私は、「呉・越」が南・北九州への影響を強く考えている者なので、その始原である「苗族」を軽視できないのである。

先に、黄帝が三苗族が洪水で長江から移動して、元もとの居住地であった比較的洪水の被害が弱かった黄河中流域に移動した先で衝突したのが「史記」で言う「琢鹿の争い」である。
三苗族はかなりの文化水準に達していて、洪水に襲われる前には、堅固な城壁を築き(と言うことは灌漑工事の技術も発達していた)、刑法に依る支配が実施されていたと言う。この地方は遺跡でいえば、良渚遺跡(紀元前23世紀)の時代で漁労・農耕文化に優れた実績を残していた。見方によれば、黄河・黄帝が支配する畑作・狩猟文化より進んでいたともいえる。しかし、黄帝に退けられ、勢力を衰弱させて、洞庭湖流域にまで敗退してった。

この先でその後も分散して行く苗族について語りたいとも思うが、さらに長くなるので、ここで先ずは筆をおこことにする。
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