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私も年で記憶力が退化している。記憶すべき書籍も探さないとどこへいったか解らなくなる。

そんな理由で、重要と思われる記事はパソコンに入れるようにしている。

「長江文明の発見」(徐朝龍)の<長江下流域の復興>の書き出し。

呉は「句呉」ともいい、いわゆる「呉地」とは主に現在の江蘇省と安徽省の南部およびせっこう省北部を指すとされている。古代の伝承によれば、西周王朝の王室直系子弟の泰伯と仲擁が王位をその弟に譲るために、自ら「野蛮の地」といわれる呉地へはいったのが呉文化の勃興のきっかけになったとされている。なお、呉国の首都は於呉といい、現在の蘇州にあたるといわれる。一方、「越」とは「於越」とも呼ばれ、その
名は越地において流行していた斧(えつ)という生産具からつけられたものとされているが、越人に自らのことを「僕莱(ぼくらい)」と称している。そして、越の勢力圏はおよそ今のせっこう中南部、杭州湾、太湖周辺を中心とする長江以南の広大な範囲を含む(ほぼ、あの良渚文明の分布と重なる)と見られている。そして、越国の都は会稽におかれ、今の紹興一帯であるとされている。

ここで重要なのは、「呉」の建国神話が語られていて、それが「晋書」や「梁書」の「日本の倭人」が泰伯が<祖>だと語っていることである。
又、「越」は彼等が斧(おの)を使用していることであり、自らを「僕來(ぼくらい)」(僕は本字はさんずいがついている)と呼び、僕は<神のしもべの意であり、莱は<むぎ>のことであろう。
つまり、白川静師が述べているように狩猟民族であり、そして畑作に従事していた民族であろうと思われることである。(ここに、苗族との共通性が窺われる)

長江中下流域は、民俗学的にも九州、特に薩摩や南方諸島との影響が多いのは一考を要するのではないかと思う。

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