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「琢鹿の争い」BC2000年代末期頃、繁栄していた良渚遺跡は突然に崩壊した。そこには三苗族の領域で、多民族連合国家で多彩の農業技術と高度の灌漑技術は相当の経済力を有していた。その裏付けとなる青銅器文化は豊富な農機具や多彩な食器が証明している。
当然、その国情を守る軍事力も充実し、都市構想も緻密で城壁技術は高い能力が窺われ、連合国の繁栄を確実なものにしていた。
伝承によれば、そこを支配していたのは三苗族の「しゆう」と言う首長であったと言う。「しゆう」の権力は偉大で、神話によれば81人の兄弟と雨師と風師それに魑魅魍魎(飛びぬけた能力を持つ軍人や呪者のことか?)を率いていたと言う。
しかし、BC2000年に彼等が住んでいた長江中・下流に大洪水が見舞います。勿論、北の黄河流域にも津波は押し寄せたに違いないのですが、比較的に被害は少なく、下流域に留まっています。そこで三苗族連合軍は黄帝の支配領域である黄河中流域へ移動します。
「琢鹿の争い」はこうして勃発します。
これも神話によりますと、初め三苗軍は優れた軍事力で(81人の兄弟は金属精錬技術に富み高度の武器を扱っていたと言います)と優秀な軍事参謀は黄帝軍を圧倒します。そこで黄帝は天の西王母に助けを求めます。西王母は部下の女神・魃(ばつ)を降臨させ、三苗族に対します。魃女神の助力で黄帝軍は勢いを得て、遂には三苗軍を破ります。「しゆう」は殺され、苗族は一部は山岳地帯に逃げ、他は長江中流域の洞庭湖周辺に定住します。これは、私の仮説ですが、江南の倭族の中核となっているのは苗族の移動に依拠しているのではないかと推測したいます。「百越」の源流は苗族と江南原住民との混血の可能性は大きいと思っています。

苗族は太祖・盤古の末と称し、貴族の死者を葬う葬礼を歌う者として、古くは「南」や「南人」と言った。「南」とはもとは楽器(青銅の鼓)のことである。
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