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ここに興味ある文章が記述されている。徐朝龍氏の「長江文化の発見」である。少し長いが紹介してみる。

剣を好む風潮が盛んな中、呉越では剣を作る優秀な鍛冶屋が輩出し、数多くの名剣を世に送り出した千将、莫邪、欧冶子(おうやし)といった職人がその名を永遠に歴史に刻んだ。一方、考古学の発掘でもこれまで「呉王剣」「呉王矛」「夫差剣」「越王子勾践剣」などをはじめ、十数丁の呉越製の剣の実物が発見され、なかでも「越王勾践剣」のように外形が全く破損なく出土したものもある。それは数千年の歳月を経てなおも美しく、今でも一度に十数枚の新聞紙を軽く切断することができるものもある。なお、春秋時代晩期は、青銅にかわるべき鉄(鋼・はがね)という新しい金属が登場した時代でもあった。考古学の上では」、呉の領域の春秋・晩期の墓から中国最初の鉄や鋼が数多く発掘され、呉国がこの人類史上、革命的な金属を開発し、鉄器時代の先頭に立っていたことを証明している。かくして、勤勉な民、豊かな経済、発達した交通、成熟した技術、強大な軍事力などは春秋戦国時代の中国において大国として台頭する呉と越の未来を固く約束したのである。

これはBC5世紀の呉・越が青銅器に変わって、鉄器を開発し、稲作で蓄えた財力や灌漑技術、造船技術を背景に勢力を伸ばし始める時代であったともいえよう。
ここで思い出すのは、BC220年頃の長江中・下流域の大洪水である。三苗国の「しゆう」は既に、神話ではあるが金属器を駆使して黄帝と戦っていることである。三苗国とは幾つかの苗族の連合体であり、灌漑技術や城築技術に優れ、鉄器さえも駆使している三苗国とは、呉や越の発祥国である三苗国のことであろう。
黄帝に敗れた苗族は再び長江中流域の洞庭湖周辺に帰り、居住したという。
その後裔が「倭」と総称される苗族系の種族であることは明らかである。呉や越、特に越の分派は数多く、苗族の血を引きながら独自の種族として伸張してゆく。

その後、「倭国・大和」は九州から大和へと進出し、八世紀に大和朝廷を築き上げるに到る。
それは北九州勢力が中心であると考えられるが、北九州勢は弥生時代から勢力を伸ばし始めた朝鮮半島の新羅や百済の貴人が北九州の先住民族と融合して作り上げた勢力だというのが通説であろう。

しかし、その頃の中国南部・江南は朝鮮半島以上に高い文化を持つ呉や越が在住しており、朝鮮南部はその勢力化にあったと考えられる。その江南の思想や技術を学んだ朝鮮が北九州に渡来してその勢力を伸ばしたのではあるが、一方、黒潮の流れになった江南の貴人は南九州、特に野間半島に漂着し、北九州以前に文化・技術を伝承していたことは大いに考えられることである。
それは南九州の習俗、末子相続制や断髪・文身、鵜飼の習俗など北九州とは交わる事のない習俗・文化が神武東征までの伝承には色濃く現れていて、神武東征はその成果が明らかに表現されている。
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