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朝鮮半島から対馬間は約60キロ米っである。丸木舟で時速3キロ米ほどで航行すれば、20時間程で朝鮮から対馬へ着く。当然、風向きの順風を選ぶはずで、比較的楽に航行できたはずである。
丸木舟を櫂(かい)で漕げば、潮の流れが要(かなめ)となる。海の流れは海流と潮流があり、海流は黒潮のようにほぼ一定の方向に流れるが、潮流は潮の干満に左右されるため、約6時間ごとに流れの方向が変わる。潮の流れを利用すれば、無難に航行することができることを意味する。
但し、海峡を横断する航海では、横に流されて、潮流を利用することができない。広い海峡を横断するのであれば、少々流されても、そのうち、流れが逆に流れるからあまり重大な影響を受けることはない。とは言え、対馬付近では漕ぐ速度を越える5・6キロ米ぐらいの潮流の知識があっても、そう容易(たやす)く航海は出来なかったであろう。
これに対して、海流は一定の方向に流れに乗っているうちは楽だが、陸に近ずくと、流れの速度が違うため、潮流とぶつかり、それなりの工夫が必要であった。(因みに、日本海周辺の海流は、太平洋側に比べれば、遥かに遅い)
古代の丸木舟による航行は、それなりに体験にやる技術的な経験が裏打ちされていて、天候や星への配慮もあって、知識も深く、様々な創意工夫がなされていたのは現代人より正確で精度の高いものであったろう。
日本南岸を流れる黒潮の流速は3・7~5・6キロ米で最高9キロ米を示したこともあった。これは丸木舟で西から東へ航行するのは大変なことであったろう。
しかし、日本海側は海流も潮流も弱く、夏には風の弱化するので、丸木舟での航行は黒潮のそれよりは比較的、楽であったはずである。
このことは縄文時代においては、日本海の交易の方が盛んであった証左であろう。
一方、黒潮の影響がある太平洋側の航行は船の改良が進み、大型化や帆船の利用が行われるようになってからかもしれない。
ただ、伊豆諸島の八丈島・倉輪・湯浜遺跡に、縄文時代に入って、島に航行しているのが解明されると、縄文人の航海技術もかなり秀れたものと言えるかもしれない。
八丈島は隣の御蔵島(みくらしま)へは80キロ米程、南にあり、そこへ行くには黒潮本流を遡らなければならない。その航海力は並み大抵なことではない。私達の想像力を超える工夫や仕掛けがなければ出来ることではない。大型船の能力に勝るとも劣らない技術力である。
勿論、潮の流れに逆行できる大型船の建造は中国・春秋時代(BC770~403年)頃になります。当時、各国は勢力を誇示するため、軍船の建造に力を注いでいます。
例えば、「呉」は<小翼、中翼、大翼>を持ち、<大翼>は長さ27・6米、幅3・6米の大型船であった。<大翼>には兵士26人、棹手50人、船舵3にん、上官4人、官吏2人、船長1人等を乗せている。
更に大型ののは「越」の<ほこ船>で、2~300人を乗せ、山東半島には8000人を300艘の船で派遣している。
因みに、「秦」では始皇帝が徐福に命じて、男女・3000人を乗せて神仙の国へ航行して行った、と言う。これは単なる伝承で、多少誇張した表現ではあるが、強ち(あながち)嘘とも言えないであろう。
私はニニギ命の笠沙渡来伝承の根拠を春秋時代の航行技術に依拠していると考えている。
隣接の朝鮮半島と北九州の交易もさることながら、中国・江南との交流もその真実を語っているような気がする。「呉・越・秦」の大型船の渡来は全く空想の産物ではないであろう。

「史記」(淮南衡山列伝)から
<昔、秦先王の道を絶ち、(中略)、徐福をして、海に入りて、神異の物を求めしむ「(中略)「秦皇帝、大いに説(よろこ)び、振男女3000人を遣わし、之に五穀種、百工を資して行かしむ」
「虜山記」より
<徐福の二番隊には、総勢554人(医師、農業人、鋳物師、酒造職人、大工、石工、紙工、製塩・製油の専門家など)が85隻の船に分乗した>と述べている。


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