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千田氏は「もともとは安曇氏も隼人と同じ根拠地を阿多地方に持っていた可能性があるのではないか」と述べています。
こらは、滝川政次郎師や谷川健一師の江南より九州にやってきた渡来の民が安曇氏ではないかとの主張と同じくする。以前の述べたが、滝川師は渡来の民は北九州に着いたのが安曇氏で南九州に着いたのが隼人でるとするが、隼人は元々、熊襲(熊曾)の後裔で縄文からの先住民族であると私は思います。その点では、中村明蔵師の説を支持する者です。
曾と薩摩は大隅諸島からトカラ、種子島、屋久島、沖縄などの南方諸島と関わる海人族、特に上野原遺跡とかこいノ原遺跡から現れる先住民族の先進性が中国・江南との交流を可能にしている。開放性な革新性が海人族には観られ、古代では異民族との交流が文化を高めている傾向が見られ、私は南九州、特に薩摩・野間半島と大隅の曾に注目している。余り学者の間では問題にされないが、上野原遺跡やかこいノ原遺跡の先進性はもう少し研究の余地を残していると言いたい。一万年前に定住を果たし、私個人的には、土偶や耳飾の存在は呪術(現代的には科学的思考か)が存在し、連結土坑や集合遺跡の生活状況は先進性に富んでいると思われるのだが、ことさらに「大和の政権」は南九州を野蛮のレッテルを貼りたがる。まるで、中国黄河民族が南部長江民族を軽視する発想に準じているように思えてならない。
私は隼人と安曇そして久米氏が南九州の先住民と渡来民の融合を解く鍵を握っているような勘がする。
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