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私は浅はかにも、天皇制の始原を知ろうと、神武天皇にそれを求めたわけですが、古代史は広く深いことを思い知らされます。

安田喜憲氏は説く、南九州、薩摩・大隅・更に日向が縄文前期より、高度の文化を築き上げていた。(上野原遺跡・かこいノ原遺跡など)その生産方法は豊かな堅果食物とその保存、狩猟や漁猟手段によって、地域の人口を支えるだけの活力を有していた。
安田氏は、それをBC1000年頃の寒冷化による気候の大変動期で、春秋戦国の大動乱期に中国に大移動が行われ、その一部が日本にも上陸した。そして、縄文人も気候悪化に勝てず、稲作を取り入れるようになる。そこで、稲作技術を受け入れようになる。縄文人は稲作文明の階級社会化を知っていて、自らの平等社会を崩したくなかったと考え、縄文期の平等化は「日本」にとって根強かったと言える。(それが日本人の持つ<和>の意義である>

私は、季節変動と中国・朝鮮の動乱と移住は大きな要素だとは思うが、その一方で国力を高める人口問題も大きな要素として横たわっていると考えざるを得ない。南九州の地域では現状を維持する生産手段は保持してはいたが、他の地域はそれを上回る人口の増加は大きく、それに伴う国力の増強はますます大きくなってゆく。
南九州の種族は、安曇海人族の情報によってその事実は把握していたと思われる。(当時は、万葉集の安曇荒雄と宗像海人族(宗像部津麻呂)の融合で見られる通り、交流は親密である)南九州を維持してゆく生産手段は確かではあったが、それにもまして稲作文化の成長力はすざましく、南九州種族はその脅威が自らに襲うことを推察していたに違いない。それが、神武天皇と塩土老爺の会話に窺われる。
特に、北九州、最近の稲作導入による人口増加は著しく、その勢力の伸長は、南九州のシラス台地の生産力では限界があることを熟知していた南九州種族は、自らが生き抜く豊かな生産力を保有する土地を探し求めていた結果が神武東征に繋がったと私は結論つけた。
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