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和辻哲郎師の「邪馬台国東遷説」を受けつぎ、発展させた栗山周一氏は次のように記している。

「結果論からいっても、九州北部にあれだけの文化の進んだ民族が原始的にせよ、国家を作り、大陸と交通して、その文化を輸入していたことを見れば、これらの民族が煙の如く消え去って、文化の非常に進んだ大和朝廷が忽然と起こることは考えにくい。むしろ、大陸をさかんに取り入れた倭国人が、大挙、瀬戸内海を東遷し、大和の地へ移り、強力な国家を作ったと見るのが、理論上、正しいのではないかと思う」
と述べている。
これは、九州の王朝が東征したことを述べたものだが、それを明確しするように、安本美典氏は面白い指摘をしている。

北九州の地名を時計回りに上げて行く。
笠置山=春日=御笠山=住吉神社=平群=池田=三井=小田=三輪=雲堤(うなで)=筑紫高田=長谷山=加美=朝倉=久留米=三瀦=香山=鷹取山=天瀬=玖珠=鳥屋山=上山田=田原=笠置山。

同じように、近畿。
笠置=春日=三笠山=住吉神社=平群=池田=三井=織田=三輪=雲堤=大和高田=長谷山=賀美=朝倉=久米=水間=天の香具山=高取山=天ヶ瀬=クズ=鳥見山=上山田=田原=笠置山。

何と、北九州と近畿の地名が符合する。これは九州からの移民がそう名つけたからだろう。このことも東遷の一因になると言える。

これは安本美典氏の「邪馬台国はその後どうなったか」の一説だが、神武東征を追求する私にとって、非常に興味のある一節である。
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