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安本氏が「邪馬台国は、その後どうなったか」で次のように語っている。

私は、北九州の甘木市付近にあった邪馬台国の一部、または、主要な勢力が、卑弥呼(天照大御神)の死後、三世紀の後半に、南九州へ、移動した事実があったであろうと考える。それが、「天孫降臨」という形で、伝承したのであろうと考える。

安本氏はここで大きな見落としがあることを私は気がつく。
北九州と南九州とは、本質的に思想的な相違がある。それは、習俗の違いである。習俗は生活の延長上にあり、そう簡単に払拭できない壁がある。
先ず、「古事記」の「天孫降臨」のニニギ命から佐野命(神武天皇)は皆、長子ではないと言う事実である。
私は北九州の種族は多分に、朝鮮半島の影響下にあり、儒教的な思考をする。しかし、南九州は南洋、特に江南の影響が顕著である。「古事記」の書かれた内容は、近親相姦、末子相続、文身・断髪、鵜飼の風習等江南の影響が大きい。しかし、儒教は近親相姦は禁忌であり、長子相続が建前である。文身や鵜飼の習俗は極端に少ない。その事実は否定のしようがない。
そんな本質的な相違のある種族がもし、渡来してきたら、それは侵略であり、大戦争になりかねない。しかし「古事記」にも「日本書紀」にもその影も書かれていない。寧ろ、降臨は順調で、「事勝国勝長狭(塩土老爺)」や大山祇神は快諾している。永くなるので省略するが、それは南九州にニニギ命を受け容れるだけの素地があったからで、私はそれを海人族の革新性と開放性で、異国文化の交流がそれを容易にしたと考えている。
つまり、ニニギ命は北九州からやってきたのではなく、むしろ、江南からやってきたのではないかと考えざるを得ないのである。
飛躍を覚悟で話せば、「晋書」や「梁書」で語られる、「倭の太夫は皆、自らを<呉の太伯の末>と言って
いることを重視したいと考えている。「呉」が「降臨」の地で、先住民(隼人乃至は曾族)と何回も混血を重ねながら、人口の増大を補うべく、畑作・狩猟と漁労の地からより生産性の高い地域を、そして軍事的戦略的にも優れた地を目指して東遷したと考えられる。(私は江南が農耕・や築城・造船・金属技術に長けていて、南九州種族は縄文からの先進性を考えれば、かなり両族は高い文化を要していたと考えているので、もし北九州を征服の地と選んでも苦労はするだろうが、獲得は可能であったと考えている。しかし、南九州種族がそれをしなかったのは、ひとえに彼等が情報通(塩土老爺は安曇海人族の首長であろう。海人族の交流は古代において、情報を齎す唯一の種族である)であり、最小限の努力で獲得できる「幸国」は大和であると判断ができていたからだと私は考える。
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