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安本美典氏は「天孫降臨」の地を霧島山の襲・大隅に特定している。安本氏は多くの説を紹介し、持論を霧島山の襲(大隅地方)に特定する。
「古事記」「日本書紀」は日向の高千穂の襲へニニギ命は「降臨」し、すぐに野間半島の「笠沙」へと行くと言うのが定説である。
また、安本氏はその詳細な説明の中で、異説とも思われる。吉田東伍(大日本地名辞典)を紹介している。

「阿多海岸の南側をなし、長屋山(これは、長永山を長屋山とする説にもとずいている)、野間岳などが羅列し、山海が秀(すぐ)れ異なっている。上古、これを阿多の笠沙の岬とよび、天孫降臨の霊跡としている」と述べる。

この説は、ニニギ命の「降臨」が日向の高千穂の襲に降りずに、直接、笠沙に降臨したことになっている。これは私を大変勇気付ける一説である。勿論、この説の有効性を論じるのはさらに、その根拠が必要なのだが、その出所を突き止めなければならないだろう。
私は、通例になっている、ニニギ命の「襲」から「笠沙」への移動を縄文草創期の上野原遺跡とかこいノ原遺跡の存在が妙に気になっている。そして、阿多姫(木花開那姫)が野間半島の阿多族の象徴で、阿多姫が述べる、姫の親が大山祇神と宣べていることは、伝承の流れから、大山祇神が大隅の地に居住する「山の神」であったことになると言う可能性は考えられる。私は非常に興味ある符合だと思っている。
どちらにせよ、その根拠が必要(大変難しいことだ)であろうが、私にはなぜか史実の臭いがしてならないのだ。

史実と言うば、日向の高千穂の曾(襲)は大隅(現在の国分市・旧桑原郡)です。何時も紹介している国分市で発掘されたBC一万年の上野原遺跡には、集合遺跡、連結土坑、丸型土器、大壺、土偶、石皿、石敲、石刀等、耳飾り、道筋などが発掘され、竪穴住居の存在も確認されている。私はその中で、蒸し器つまり甑(こしき)の存在に注目する。甑は曾に通じ、昔と言う意味もあるが、何故か「曾」との符合が気がかりでならない。それだけではない、ニニギ命の「天孫降臨」が曾から、すぐに野間半島の笠沙(現・加世田市)に行き、阿多姫と遭い血縁している。不思議なことに、この加世田市にはかこいノ原遺跡が存在して、上野原遺跡と同様な遺跡が出土し、丸ノミ式石斧が発掘されている。この遺跡もBC一万年のもので、丸ノミ式石斧は丸木船の製造に欠くことができず、大隅諸島、トカラ、種子島から沖縄までの文化圏を構築され、阿多系海人族の範囲である。
阿多姫(木花開那姫・このはなやさくやひめ)の名称どうり・阿多(隼人族の薩摩の別称)との邂逅は偶然とだけでは説明ができない。この符合も私には偶然だとは思えないのである。
しかし、科学的な方法論のなかった古代で、八世紀の「古事記」や「日本書紀」の編者が認識していたと言う宇野もありえないとは思うが、現代人が思いもよらない感覚や文字を持たないが故の口伝は一概に否定もできない。
ただ、ニニギが「曾」から「笠沙」への移動は「上野原・大隅」から「かこいノ原・加世田市」への移動と一致するのは一考を要するのではないかと思う。
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