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三内丸山遺跡を大林組はかなりの評価をしている。BC3500年の縄文中期の遺跡は都市としての機能を完全に果たしていたと評価している。都市は他民族との交流が恒常的であり、市場が開かれていなければならい。文化や宗教の情報交流の場でもあると規定する。
確かに、三内丸山からは新潟・翡翠、黒曜石は北海道、長野・諏訪霧ヶ峰からのものである。秋田や山形のアスファルト、岩手の琥珀、さらに関東の御蔵島・八丈島のゴウホラ、オオッタノハが出土している。これはかなりの交流があったことを意味している。

三内とは少し離れるが、青森・亀ヶ岡の大洞式(おおぼらしき)土器が南海の種子島の大薗遺跡から発掘されている。(縄文後期)そして、日本書紀の崇神天皇紀での「神宝」の条で出雲の神宝を請い、出雲振根が筑紫に行っていたため飯入根が譲渡したという件では出雲振根は多分、舟で筑紫へ向っていたと思われる。

出雲は神在祭で南方から黒潮に乗ってやってくる「セグロウミヘビ」を祭壇に捧げる。当然、彼等はそれが日本近海では捕獲されないのもであることを知っている。「常世から来る神に相当する」と言えば神話的だが、その原産地は解らなくとも、暖かに南方のものであることは理解していただろう。対馬海流に乗って、他国の海人族が出雲に漂着しているのは確実であるから、「ウミヘビ」の確認くらいはしていたはずである。

これらは縄文人がいかに船による他の地域との交流が数多くあったことを証明していたと思われる。
舟はBC一万年にはかこいノ原遺跡には製作されていたと思われ、それが大隅諸島、トカラ島、種子島、沖縄までかこいノ原・丸ノミ式石斧文化圏が広がっていて、その技術は丸木船を製作していたであろうから、海人族として他国との交流を可能にしていたと思われる。(長い時間的な経過の間に、遠洋航海に耐えられる舟の改良は必ず行なっていたに違いない。彼等は命を張って航海を続けているのである。自らに命を保証するために航海に耐え得うる改良は当然の帰結である)

三内丸山遺跡が縄文時代にかなりの他国との交流があり、高度の文化的な情報を交換していた事実が私には驚異であった。私達が考えている以上に縄文時代は高度の文化水準にあったと言うのが事実であろう。
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