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縄文時代の住居について書籍をよんでいる。

出雲や吉備、長野(釈迦洞遺跡など)も興味があるが、私は何より、三内丸山遺跡と鹿児島の上野原遺跡とかこいノ原遺跡に食指が動く。

今、三内丸山遺跡(BC5500年から4000年)について数冊読み終わっているが、この遺跡の文化意識の高いことに驚いている。各地との交流もさることながら、自然環境に対峙する姿勢は現代人の姿勢と劣ることは無い。
例えば、稗(ヒエ)はイヌビエと言う野生種と栽培種が渾然している。ヒエは食物として有効な穀類で大量に貯蔵できる。だから、栽培種だけで言いようのものだが、彼等は敢えて両方を収穫させている。自然の災害を考え、その自然に対しての生育の強度を考えて、敢えて野生種の逞しさを温存する。栽培種は純度も収穫量、計画性も有効なのだが、病害に弱いと言う欠点がある。そこで彼等は、敢えて強度のある野生種を残して、災害時に具えている。何と言う読みの深さであろう。それだけ自然界の猛威は強烈だということもあろうが、総合的に事態に対処する精神の高さは現代人にも匹敵する。

羽生淳子氏(元バ~クレイ大學準教授)は外国の例を紹介している。ある北米の種族は狩猟採取を移動型と定住型に分け、移動型は日々の食を集める拠点を持ちそこに簡単な住居を構えて、貯蔵施設を置き、そこから定住の住居に運ぶと言った合理的な仕事をしていると述べている。西欧の分析、合理主義的な定義である。

しかし、三内丸山遺跡はそれに当てはまらない。彼等は完全に定住をしており、食は狩猟、採取、漁労なおも農耕(と言えるか疑問だが)と言った総合的な食の獲得をしている。
それだけではない。黒曜石、琥珀、瑪瑙、アスファルトなどの他国との交流さへも行っている。特に注目すべきは、オオツタノハ・タカラガイ・イモガイなどの貝類でこれは南島にしかできないもので、かなり遠方からも交易は行われていたと言える。住居と墓の峻別、水路や道の建設、巨大な集会施設(共同作業所かもしれない)、20米にも越する楼閣(使用目的には諸説ある)川の使用目的にも決まりを設けて川が汚れない配慮がなされている。これは明らかに、目的意識を持った都市構想的である。

私は西欧の分析・合理的な住居感覚とは異なる一見無駄さえも感じる総合的な志向に感心する。
そこには、縄文人のアニミズム感覚、あらゆる「もの」には精霊が宿ると言う信仰が根底にあることを思う。分析的合理的な思考のほうが精度や進行速度は速い。しかし、人間中心的なので自然を支配するため破壊し、よごしてしまうと言った欠点もあるのだ。総合的に物事を取れえれば、進行は遅いが縄文的な発想の方が優れていると私は思う。
今の世界情勢を見ていると、人間中心の独断的な振る舞いが、自然を汚し、人間に格差をつけ争いの根になっているように思えてならない。縄文人が、いや、三内丸山人の1500年にもわたる繁栄を思うと、「和」による緩やかな階級性(原始共産制でもないだろう。その中間か)は人間同士の諍いを回避しているように私は思えてならない。
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