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復習です。
鹿児島・宮崎には日向三代の神社があります。
祭神・ニニギ命は新田神社(鹿児島・川内市)祭神・ヒコホホデミ命は鹿児島神社(鹿児島・姶良郡)ウガヤフキアエズ命は鵜戸神社(宮崎・日南市)神武天皇は宮崎神社(宮崎・神宮市)です。
それに関連した神社にはオシオミミ命で英彦山神社(福岡)二ギハヤヒ命は高良大社(福岡)で共に北九州で祀られています。
私は日向三代を南九州系王朝と呼び、英彦山神社・高良大社に祭られた命を北九州系王朝と呼んでおます。
南九州系王朝は江南の神話・伝承・習俗の影響を受けています。曽於族(隼人各種族)と安曇族の混血が隼人の名の元に南九州系王朝を形成していたに違いありません。その首長がニニギ命・ヒコホホデミ命・ウガヤフキアエズ命・神武天皇でしょう。北九州系王朝は非常に複雑で朝鮮、江南、先住民族と融合しながら、どちらかと言うと朝鮮(百済・新羅)の影響が色こく出ているような気がします。
八世紀には明らかに北九州系王朝が大和で覇権を得ているのは周知の事実です。しかし、神話・伝承によれば、初期王朝は南九州系王朝が「記・紀」の記述のとうり江南の思想的影響下にある王朝が優位にあります。どこでその地位が逆転したのでしょう。
私のこれからの課題と言えます。

神武天皇は塩土の老爺の進言で東征するわけですが、まず大分県の宇佐へ行きます。「古事記」では宇佐津彦と宇佐津姫から足一謄宮(あしひとつあがりのみや)で饗応を受けています。足一謄宮とは川(海の浅瀬)に饗応室を建てて、丁度、能の舞台のような高床式舞台を造りそこで天皇を歓迎の饗宴を張ったのでしょう。<江南の海人族の住居形態を思わせます>これは宇佐の国主の服従儀礼で一説には宇佐津姫は天皇の随伴者である天種子命(中臣氏の祖)を娶わしたとされます。
後に宇佐は八幡神社を建立しています。そこには新羅色の強い信仰ができ(秦氏が伝えたとされます)、隼人征伐と深い関わりを持ちます。つまり、北九州系王朝の信仰の浸透が見られます。そして、宇佐神社は英彦山神社(ひこざんじんじゃ)や香春神社(かわらじんじゃ)との関係を持っており、南・北王朝との始めの接点となっているのです。

この秦氏は五世紀~六世紀前半ころ、伽耶、新羅から豊国へ渡来した人々は豊国の住民と共に、外来の技術(稲作、鍛冶<有力な武器の製造>、採鉱、養蚕、灌漑など)と道教信仰を持って七世紀末~八世紀初頭に日向に移住した。
このことは八世紀初頭に大隈地方に隼人征伐のために豊前国より渡来人が移住してきた史実と合致する。713年に大和朝廷が隼人征伐を行っている。旧桑原群(現・国分市)の曽於族(大隈隼人)を謀略の末、討伐している。その後、740年の藤原広嗣の乱まで騒乱は続くが曽於の君の寝が入りで終わりを告げる。
その後、秦氏は渡来人の齎した信仰と仏教との習合により六世紀末には「豊国法師」と呼ばれる法師集団を作ったと考えられる。

隼人征伐についての諸説があるが、一つはクグツに細男舞を舞わして、それを見に来た隼人を虐殺したとあります。(宇佐八幡宮の放生会に関する伝承)、渡来人の鼓吹幡旗の歌舞による祭事が九州土着民には珍しかったので、この歌舞を隼人の地で行ったところ、隠れていた隼人が出てきたので討伐したとの伝承もある。

ここに二つの文章があります。
一つは~「仁徳天皇の皇后は、磐媛でその父は葛城襲津彦(出身地は日向の襲の地・大隈地方)です」
他は~「ニニギ命の皇后は、神阿多鹿葦津媛でその父は大山祇命(出身地は日向の曽於・大隈地方)です」
磐媛も鹿葦津媛も、南九州の大隈の首長の娘である。この一致は単なる偶然だろうか。私は初期天皇の普系に於いて、天皇と南九州系原住種族の混血の結果を現していると思う。


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