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私は呉に付いて興味を持ったのは、「晋書」や「梁書」で倭の太夫が自らを「呉の太伯の末」と名乗っていることからであった。

その後、谷川健一師の「古代海人族の世界」で、滝川政次郎師の「猪甘部考」での一説<漢の武帝が南越を征したあと、飽くなき漢人の誅求をのがれた百越の民は、黒潮に乗って九州西海岸の南北へ渡って来た。黒潮は屋久島沖で二つに分かれ、その九州の北に着いたのが安曇族であり、南九州に着いたのが隼人族である>

結果から言えば、それは「苗族」に行き着く。苗族は元々、黄河付近の遊牧民族であったが、黄帝の出現で敗北して、一部は山岳地方にのがれ、他は長江中流域の洞庭湖に居住して「倭」を形成し、栄える。その核は三苗族で首長は「しゆう」である。この地は法律を持ち、堅固な城壁を構築していた。銅や鉄の生産と技術も盛んであった。これから推察するに、農業の灌漑のなされ、豊富な農産物(麦が中心だろう)が考えられる。しかし、前2200年の世界中の大洪水で長江流域は破壊された。当然、黄河も打撃を受けたが、幸いにして下流域に留まった。そこに三苗族も移動した。元来、そこは彼等の領域だったことからの移動であった。

これが有名な神話の「啄鹿の争い」である。
「しゆう」は雨師や風師を率い、81人の親族は金属器を操る豪族で、黄
帝は敗退を余儀なくされた。そこで黄帝は、天に昇り西王母に助力を求める。西王母は女神「魃
」を与え、三苗族を敗退させ、三苗族は長江へ追い戻される。
そこで生まれたのが、百越である。そしてさらに各種族が独立して、「呉」や「越」を建国することになる。

「呉」は白川静師に従えば、祝寿器を捧げて踊りながら神を崇めるとする。「越」は馬に乗って、矛を不利化がして走るさま、だという。さらに「越」は自らを「僕莱(僕には水編がある)」と呼び、明らかに長江の水稲民族と言うより、黄河流域の畑作(麦)民族に近い。「呉」は呪術者であろう。

このル~ツを見れば、「呉」「越」は黄河的で後年の海人族的要素は窺われない。多分、それは初期の苗族の名残りであろう。そういえば、少数民族の苗族には入墨の習慣はない。しかし、「呉・越」の民族は入墨をしている。
もう一つ、「呉」の建国者・太伯は元々周の長子で生みの親に疎まれ、亡国する。話が長くなるので割愛するが、これが末子相続の起源です。

そして、春秋時代の「呉と越」の争いで、呉王・夫差は破れ、その種族が朝鮮南部や九州に敗退するのである。それが「晋書」や「梁書」の発言に通じるのでしょう。
私は滝川政次郎師の「隼人族」がこの「呉」の系列と考えています。ニニギ命がその首長というのが結論です。

まあ、病中のまとめで、粗雑で根拠に弱いのが欠点ですが、概ねこれは私の正論です。
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