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日本の識者は「呉」建国の<太伯>を軽視して憚らない。火のない所からは煙は立たない。神話には史実が横たわっている。私はそれを解明するのが識者だと思っている。

ここに「呉」の建国史実を述べる文章があるので、紹介しようと思う。

「この印文土器に関して、かいずか茂樹氏は次ぎのような興味ある事実を述べている。<1954年、中国の紅蘇省丹徒県の揚子江の台地で、十数個の青銅器が発見された。その中には周初の中原式の銅器が混じっており、その器の銘文の「宜候ソクが周の康王によって、この地に封ぜられた>とかいてあるのがあった。かつて呉国は周の二王子の太伯と虞仲が弟の李歴(李王)に王位をゆずるために南に奔り、蛮族の中の身を投じて建国したと伝承されていたが、この呉国の建国の物語は、事実とは無縁の説話とみなされてきた。しかし「二王子ではないが、ともかく周族が揚子江南に「宜」という植民都市を建てたことは、まぎれもない歴史的事実であった」と貝塚氏はいう。(中国の歴史)そうした発見から倭人の原郷を呉にもとめる伝承、すなわち「魏略」の「倭は自ら太伯の後なりという」とある一句も、従来のように妄説として、退けられるものではなく、より歴史的真実に近ずいたとみなす可能である。」

「宜」の伝承を「呉」建国伝承と比定している。ここに「太伯」の臭いを感じ、五世紀の倭(和)人が信じていたことは紛れもない事実であろう。

余談だが、「越」が「呉」の方が情報が多いのは、どうも「久米氏」より「大伴氏」の方が多いのに似ている。
これは勝者と敗者の関係だろう。「百越」とは言うが、「百呉」とは言わない。それは最終的に「越」が勝利したからであろう。久米氏も四世紀に衰退したことと、八世紀に「大伴氏」は重要な地位を占めていたからだ。
徐龍朝氏が「長江文明の発見」でこう述べている。

<呉越同源>の項目。
「一方、地域的な近接と文化風土の類似によるものか、時代が下がるにつれて、呉地と越地の文化は次第にその共通性が顕在化するようになった。また、「越有百種」といわれているように、「越」の地域的な広がりと時代的な延続などを重要視し、考古学の上で呉の文化を越文化の一部として捉えている学者もいる。」

これは「呉越」が春秋時代前には、「倭」と呼ばれていた事と意を通じるような気がする。そして、その「倭」の本願は「苗族」であることを思うと、「苗族」と「呉越」の共通性を探るのま重要な意味があると思う。私は「和(倭)」の遠い始祖である可能性が認められることを思うと、少々食指が動く。
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