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南九州の一部の住民が「隼人」と呼ばれる前に、七世紀中葉までにこの地域の人々を区分すると、南部九州本土の東部大隈郷には「北に曾人」南には「大隈人」西部の薩摩側には「薩摩人」南には「阿多人」の地域があった。
又、南島には多禰人、屋久人、阿麻弥人などがいた。八世紀初頭、中央政権は国政施行を目指して、南部九州の北半に進攻した。曾人、薩摩人の両地域を支配しておくのが目的である。大宰府に命じて、三野・楯積の二城を修復させ、信濃、歌斐の梓弓を大量に大宰府に備えている。大宝二年(702)に薩摩・多ねの二国が和銅六年(713)に大隈国が成立しているが、いずれも住民の抵抗があったことを「続日本紀」から世も取れる。薩摩人は終わったが、曾人の抵抗は養老四年(720)から翌年にかけて、中央政権の国守を殺して続いた。

隼人は江南から東シナ海を渡って、薩摩半島の阿多地方にやってきた海人族(滝川政次郎説)は大きな耳輪を下げ、犬祖伝承や鵜飼の習俗さらに文身、金属技術を持って来た。(鹿児島・日置郡金峰町高橋から弥生前期の棒状の鉄器が二個出土している)

羽原又吉は海人族を宗像系、安曇系、隼人系に分けている。隼人は南方的要素を持った海人集団であろうと述べている。

八世紀中頃、薩摩国三郡のうち、わずか三郡の例であるが、北部の出水郡の軍司には、肥後国の豪族・肥君、五百木部、大伴部などの氏名が見られる。肥後勢の南下が窺える。又、薩摩君が南部の阿多郡まで勢力を伸ばしていることが解かり、一方では阿多郡に阿多君が見いだせず、八世紀中頃に近い天平期には衰退している。
曾君は八世紀に至っても、その勢力を持続させたほど隼人最大の勢力であり、その本拠地は一部を鹿児島湾岸におきながらも、南九州の内陸部を領有しており、容易には大和朝廷に従属していない。(最終的には、藤原広嗣の乱・740年、曾君・多理志佐の裏切りまで続く)

薩摩国の国府は高城郡に設置され、大隈国の国府は桑原郡(現・国分市)に設置されたが、それぞれの国府の周辺には各200戸、四郷分の移民が配置され、国府の守護を住民の教導がなされた。移民は薩摩には肥後から大隈には豊前・豊後からであったから、南国の国府周辺には移民の本願地での氏名があったはずだが、それらを確認するス涼は見当たらない。
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