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2013.09.24 再読その三。
面白い文章が書いてある。しかし、残念ながらその著者が記していない。三年前から記した文章には必ず著者と出版社を記入しているから、五年前の記述であろう。

その前半で滝川政次郎師の文章が乗っている。
「安曇族、隼人族は共に同一民族であって、ともに文身の俗を持っている。

とあり、その次ぎに書かれていた。

神武天皇は高千穂宮にあって、肥後、日向に住んでいた隼人族を訓練して、強剛なる軍隊を編成し、これを率いて中洲を制定して王朝を肇められたのであって、天皇の親衛隊である久米部は肥部(あまべ)即ち隼人族である。
孔舎衛坂の戦いに敗れた天皇が、直に紀州の熊野(肥野)に向われたのは、熊野にも隼人族の集落があって、その衆を味方に引き入れて、征族を増強する見込みを立てられたからである。天皇が伊那佐の山に苦戦して応援を求められた鵜飼の伴は、熊野で編成せられた隼人族の軍隊である。故に、久米部の兵士である久米の子も、久米の子を率いる大久米命も、みな面に入墨をしていたのである。伊須気余理比売が大久米命のさける利
目(とめ)を見て、奇(あや)しと謳った歌はこの事を証明している。

この文章は隼人が太古から海人族の性格を帯び、安曇氏や南島の海人族との交流があり、薩摩の地に根ざして各地にその移住を可能にしている。神武天皇も薩摩・日向にその勢力を持っていたから、隼人がその勢力化にあったのはありえることである。それがこの文章を書きとめた理由であろう。確かな記憶はないが間違いではないだろう。
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