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今、「炎の女帝」(持統天皇)について読んでいるが、この作家については納得させられない点が多い。母の出産について五歳の子に一人で出産を立ち会う場面は明らかに印象場面でこのようなことは現実には起こらない。明らかに作者の印象表現である。私は虚と実の間に真実があると言う、近松門左衛門の説に同意するものだが、作家の表現も虚と実の狭間の現実的な表現が正しいと思っている。

観念のままの表現はわかり易いものだが、それは絵そら事となってしまう。厳密に言えば、「色と空」の仏教用語の実と空(気とか霊気であろう)の混沌が真実なのであろうが、今はおくとして、空くまでも実を手がかりに表現するのが最善だと確信している。

三田は想像に走りすぎるきらいがある。五歳の幼女に、間人皇女と中大兄皇子の近親相姦を批難させる場面があるが、多分これは三田の思念であろうが、彼は後の持統の、県犬養三千代と藤原不比等の「不義」を禁忌として考えたであろうか。もし、五歳の持統に禁忌を批難する視点があったら、成長した持統の行動をも想像の片隅に置くべきであった。彼にはその総合性に混乱があるように思う。

しかし、次ぎの文章は素晴らしい。

「むろんあの男(中大兄・父)に恥などというものはないだろう。だが同母妹(間人皇女<はひしとのひめみこ>を人前で親しむことははばからない無道の人物が大王になたのでは、世の中の秩序が乱れる。従わない豪族もでてくるはずだ。そのため中大兄はわざと皇太子のままで、陰の存在として政治を操ろうとしている」と書く。

ここで政事と世の乱れを相関性が語られているが、確かに「乱れ」は総合的である。単に一つの現象が単独になるたっているのではなく、多くの要素が絡み合った緩みが「乱れ」として顕在する。「緩み」こそ「乱れ」を形成しているのだ。
私は「世の乱れは」人心だけに留まっていないと思っている。人災は天災をも呼ぶという真理をもまた、しんじている。「続日本紀」を読むと必ず、政乱の時には「天災」が襲う、不思議なものである。

三田誠広はそれを半ば感じてはいるようだが、顕在的に意識まで到達してはいないようだ。この混乱から抜け出せば、さらに素晴らしい作家になると思う。
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