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「太伯」の説明は、上野武氏のものが適切である。・・・「魏略」の記した太伯伝説は正史っである「晋書」四夷伝・倭人で、文身習俗の記事と共に「自らいう、太伯の後」とされ、その後「梁書」「北史」に受け継がれた。さらに、宗来元初の歴史家・金仁山(1232年~1303年)が「通鑑前編」で「日本いう、呉の太伯の後なりと。けだし呉亡んでその支庶(後裔)海を入って倭となる」と記したように、倭人を太伯の後裔とするのは、中国人にとって常識だったとみてよい。

そう記している。以前も述べたように、現代の学者は「呉」を説話上の人物とみなし、その信憑性を軽視している。しかし、私はその伝承のそこには史実が横たわっていると解釈しているので、「呉」を重要な項目として、古代史のポイントとして評価している。

「呉」は白川静師の<字通>によると、サイ(祝寿器)を持って踊り神を称えると、説明している。これは「八幡愚童訓」によれば、安曇磯良は、住吉大神の神託により、神功皇后の呼び出しで、細男舞に誘き出されて海上より踊りながら浮上してきた。永らく海中に住んでいたために、ヒシや貝・海藻が顔についていたので顔を隠して浮上してきたとされる。
これは「呉」の呪術性と安曇氏の呪術性の類似性による。つまり、江南からの渡来がある程度行なわれていて、その習俗が伝わったことによると思われる。私は何回かの「呉」や越人の渡来や漂流・亡命の結果、野間半島に居住がなされて、先住民族との融合の末、初期南九州王朝を形成したと考え、所謂、「天孫降臨」から「神武東征」の神話の素話となったと考察する。
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