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「南からの日本文化」の中で安田喜憲氏が興味深い文章を載せている。それを紹介する。

長江下流では、7600年前に稲作が始まっているのに、日本に進入が遅れた理由には、栗や栃の木の半栽培農耕と漁労や狩猟を合わせた食生活が豊かで、農耕をあえて必要としなかった。ドングリや栗の堅果類の利用法を発展させ、食物体系は堅固であったので、稲作・漁労文化に比して「半栽培漁労文明」で十分であった。縄文人は東シナ海や日本海、むしろ太平洋を横断した可能性もある。長江との交流もうかがえる。しかし、稲作をあえて受け容れないでもよい豊かな食料環境にあった。BC1000年頃の寒冷化による気候の大変動に中国に大変動が行なわれ、その一部が日本に移動した。そして、縄文人も気候悪化に勝てず、稲作を取り入れようになる。そこで、稲作技術をもった人々を受け容れることになる。縄文人は稲作文明の階級社会を知っていて、自らの平等社会を崩したくなかったと考えているのではないか。縄文期の平等化は「日本」にとって根強い。

私はこの文章に共感を得た。縄文文化が一万年もの間存続しいたのは縄文の「円の思想」が根底にあるからであろう。アニミズム思想を引き継いだ「和」の思想は循環の自然志向を取り入れた優れた哲学が根底にあったからである。しかし、力の思想が、高度の稲作と金属技術を持った大陸思想には勝てずに、縄文人はそれを取り入れて生き抜くしか方法がなかったのであろう。
私は残念ながら、縄文人の側にたった志向を正しいと見るが、現実は「勝者」の論理が優先する。まことに遺憾だがそれが現実である。

「古代海人の世界・谷川健一」より。
漢の武帝が南越を征したあと、飽くなき漢人の誅求をのがれた百越(中国南部に住んでいた民族の総称)の民は、黒潮に乗って九州西海岸の南北へやってきた。黒潮は屋久島の沖で二つに分かれ、その一つが北上して対馬海峡に向っているので、南・北に着くのはほとんど同時でおる。その北九州に着いたものが安曇族であり、南九州に着いたのが隼人族ではないか、と滝川政次郎はいう。(「猪甘部考」より)納得できる推論である。

「倭人の登場・森浩一」
大陸に到達することは縄文人の航海術で十分可能だったのである。縄文人は、縄文早期や前期から、大陸にいたり、あるいは往来できる航海術を着実に磨きあげていたのである。

「水産海洋研究63の2」
1998年8月20日、薩摩半島西岸から南薩の広範囲にあたって大量のゴミが海岸に漂着した。ゴミはプラスチィクライタ~やボトルで、これらの製造地域は中国華東、華南地方、台湾及び日本で、韓国を含めた黄海沿岸地方の製品がほとんど見られなかった。大量ゴミの発生地方は中国華東、華南地方および台湾の東シナ海南西海域であると推量される」


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