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1957年(昭和32年)一月三十日群馬県相馬ヶ原の演習場で坂井なか(46歳)が射殺された。犯人はウイリアム・ジラ一ド三等技兵が犯人である。

米軍三ヶ尻区憲兵隊より県警本部渋川署の派出所に連絡が入る。
群馬大医学部の見立ては背後より撃たれ、胸部大動脈上部より空薬莢が発見される。

村民・小野英次の証言「朝、八時頃、私は家を出た。演習場では女・子供をまじえた八・九十人がタマを拾い出していた。米軍は、午前中、ライフル銃と機関銃の実弾射撃を行い、昼食後一時から空砲射撃に移った。私は二・三人で物見塚の中腹にへばりつき、兵隊に近ずいた。射撃が終わって、休みになったので、飛び出して行くと、一人の兵隊が私の前方、七、八米の所に、薬莢をバラ撒いた。手招きをするので走り寄ると、横合いから、坂井なかさんが飛び出してきた。この時「ママさん、ママさん」と言って、その兵隊は、四米ほど前にある壕を指さした。坂井さんは私から離れて、壕に飛び込んだ。私も、壕の方に行こうとして、ふと兵隊を見ると、銃口が私を向いている。「危ない」という思いが一瞬、頭を掠めた。慌てて二・三歩かけ出した途端、ブスッとタマが足元をかすめた。ふり返ると、兵隊は二発目をこめながら、坂井さんに「壕をでろ。出ろ。GETOUT、OFHERE」と怒鳴った。二三歩這い出した時、坂井さんは「キャッ」と言う悲鳴をあげて、その場で動かなくなった。足をやられたか、気絶したかと、近寄ってゆすぶってみたが起きない。背中に少し血がにじんでおり、脈はなかった。兵隊が「おぶって家に帰れ」と言うので「もうダメだ」と手招きをすると、青くなって衛生兵を呼びに行った。隊長がやって来て、私に時計をみせ、「十時半だったか」と聞くので「演習中ではない。いまやられたのだ」と手招きすると、慌ててMPを呼びにいった。その時計は二時十分を指していたから、坂井さんがやられたのは、一時五十分頃だったと思う。麻袋に薬莢が30本程入っていた。(週刊朝日・1951・2・24)

事件後、2月5日・第一騎兵師団長・エドウィン・カ一ンズ少将「調査中だが、事故死と断定できる」と声明した。
ジラ一ドの直属上官モ一ホン少尉は「事故が起こったのは実弾演習の行なわれていた午前中で、実際、自分が被害者の倒れている現場に行ったとき、日本人農夫が被害者の死亡時刻を午前中にするか午後にするかの相談をしていた」と声明する。

2月7日、群馬知事あての書簡・・・カ一ンズ少将「事件は被害者が明らかに自分の安全を無視して立ち入り禁止区域に入っていたために起きた。安全規則を無視した場合、重症・死亡が起きることを県民に徹底させてほしい」と述べ、嘆いてた。

米側「15から20米の距離から空へ向けて撃った」とか、ある目撃者は「7・8米の至近距離から水平に撃った」の証言があった。

事件の結審、11月5日。
裁判長・河内雄三(ウォ一レン最高武官の発言をうけ、公平な裁判を行なうと発言する)
懲役三年執行猶予四年。

N三等特技兵の証言
「7・8米から12米」か赤いら撃つ「薬莢を撒いて呼び寄せる」「立ち撃ちの姿勢で銃を肩にあて、坂井さんを狙って撃った」「犯行後、距離を長く見せるため、発砲地点近くにあった機関銃を遠くにいどうした」
等の証言があった。
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