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三ヶ月前だったろうか。ある村の老人が放火した事件が起こった。この60歳の老人は都会に住んでいたが、父親の死で帰郷してその村に住み着いたのだが、隣人との折り合いが悪く、積年の恨みが表出して突然放火に至ったという。彼は放火の前後は覚えていないと供述している。

私はこの事件は重く複雑で人の意識の深層に潜む重要な事件だと考えている。
私達の意識の形成は200年いや、一万年まえの縄文から継続して形作られてきた。多神教の日本人は「他との融和」を基本として、思考の形成を続けてきた。しかし、戦後の教育は付け焼刃の西欧民主主義と個人主義を基本に施行している。マンションは続々と建設が進み、閉じ込められた個室は他人との心の会話を隔離し、隣の人間が何をしているのかさえ知っていない。私の子供の頃は、いい意味での干渉主義が残っていたが、昨今は隣人の親交は皆無である。
しかし、地方の村ではまだ隣人同士の交流は残っていて、薄れたとは言え緩やかな干渉主義(隣組精神)は残っている。今回の帰還老人と村人の心の齟齬が起こした事件と言える。老人は村で孤立していたと言う。老人は自分中心の行動を良しとして疑わなかったであろう。都会では、下手な他人の介入は犯罪とも認定され、プライバシ一の名の基に孤立は合法化されている。むしろ、その生活態度こそが是認されるのである。だが、村でではそうはいかない。他人を認め、自らの意向を我慢してまで、村の隣人同士の生活を優先する。つまり、大いなる妥協を要求されるのである。その譲り合いの精神こそが日本人が培ってきた精神なのである。
私はそれを「古い」だけで退けていてはならないと思う。「近代化」と「融和の日本精神」との根底からの考察が必要な時期が来ていると私は思う。「村と都会化した老人の意識」の融和こそ考える時期に来ていると思います。
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