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隼人と言う命名は八世紀の始めに、大和朝廷から名ずけられた名称です。それまでは曾(襲)族と呼ばれていました。702年に肥君が大伴氏や五木百部氏などを引き連れて、肥後の国から出水郡と高城郡(たかぎ郡、現在の川内市)に曾族の馴化のため200戸を移動した時から使用された。その後、大隅国に714年に備前国よりやはり200戸を大隅国の桑原郡(現在の国分市)に進出させ、曾族の制覇を目論み、朝廷が送った陽侯史麻呂を殺したため大伴旅人を将軍に党争を続け、740年の藤原広嗣の乱で曾君の多理志佐の裏切りで幕を閉めた。それまで南九州は曾族が薩摩・日向を支配していたと思われる。
曾族の本願は鹿児島湾の奥部の山岳地帯に拠点を置く、「古事記」で言う大山祇神が居住していたと思われる。
南九州は鹿児島湾を拠点に桑原郡と野間半島の笠沙を支配下に置き、上野原遺跡にあるように半狩猟、半採取を営む曾族と笠沙に象徴する、かこいノ原遺跡にあるような海人族を配下に南九州に君臨していたと思われる。

「古事記」に「天孫降臨の曾」から「笠沙」にいたる神話に見えるように、久米氏と大伴氏が先導して阿多鹿葦津姫(コノハナヤサクヤ姫)と婚姻を結び、皇孫の系譜が始まる。

この野間半島は古くから、黒潮の影響で江南や海南島からの漂着物が多く、「呉」や「越」の種族も折にふれ(漂着や戦乱、政争の亡命など)野間半島に上陸していた。
滝川政次郎師は「猪甘部考」に<その北九州に着いたのが安曇氏であり、南九州に着いたのが隼人族である>とのべている。しかし、南の隼人は「曾族」の大和朝廷に屈服した命名である。「曾族」は縄文時代からの先住民族であり、隼人族と言うのはありえない。やはり、ここも「安曇族」である。しかし、その後、南九州に「安曇」の名は見られず、久米氏が活躍している。私見であるが、「久米氏」は南の安曇氏の後裔で安曇氏は隼人や久米氏と婚姻を重ねたか、衰退して名を失ったと思われる。

隼人については征服された民族のため主体的な伝承がなく、真実が伝わっていないが、縄文から弥生にいたる渡来人の優勢が始まるまで(弥生の稲作の進行と人口の増加が起因した)、明らかに「曾族」(隼人はその末裔)が先住していた事実があり、私は「古事記」や「日本書紀」の神話はその記憶だと理解している。


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