上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
私達は何気なく文字を書いているが、元より日本には文字が存在しなかった。会話が意思疎通の表現手段であった。勿論、文章などなく、あるとすれば目印や手振り、印に類するものであったろう。日常は会話「音」が表現手段であった。

例えば「ソ」と話す。何やら意味が解らない。日本書紀では「襲」と言い、古事記では「曾」と言う。また風土記では「曽於」とする。皆、漢字にあてたものだろう。
漢字には意味がある。その言葉には「言霊」が存在するのだ。矢鱈に文字を乱用すれば、文字の逆襲を受ける事になる。そんなことは古代の識者は百も承知で文字を選んでいただろう。
そこで私は「ソ」についてどれが一番「ソ」の意味に近いか考え続けて、素直に意味を表現しているは、「古事記」の「曾」であると思った。日本書紀の「襲」は明らかに本来の「ソ」を選者が翻訳している。「ソ」は「空」や「背」や「北」に付託して、意味を引き出すが、「襲」には<おそう、かさねる、死者に着せる衣>と言った意味がある。日向の高千穂の襲を考えると、どれも当てはまりそうにない。「風土記」の「曽於」は明らかに当て字である。
そこへ行くと、「古事記」の「曾」には<昔、とか甑>と言った意味が通じる表現なような気がする。<昔>が判り易いが、私は<甑>も捨て難いと思っている。
所謂、「襲」の地は大隅(現在の国分市)に比肩されるが、ここには「上野原遺跡」があり、竪穴式住居ともに「集石遺構」があり、これらは「蒸し器乃至は蒸し設備」と言われている。つまり、「曾」に比肩しても可笑しくはない。

私がもう一つ不思議に思うのは、「天孫降臨」との関連である。ニニギ命は「曾」に居り、笠沙に行き着く。笠沙には「かこいノ原遺跡」が存在し、ここには「丸ノミ式石斧」が出土している。それは丸木舟製造の器具に辺り、大隅諸島から沖縄まで「かこいノ原石斧文化圏」を形成している。この海人族は相互に交流をしいるのである。

勿論、八世紀、「日本書紀」制作の時期に考古学は存在してはいない。しかし、大隅には曾族が薩摩半島には阿多族(隼人、薩摩族)は先住していた。「続日本紀」や「薩摩正税帳」などに見られるように、八世紀には肥後国から肥君・大伴氏・五百木部氏などが出水郡と高城郡に侵入しており、大隅には備前国から200戸の移住をして「曾族」の平定に当たっている。
これも「曾」と「薩摩・野間半島以北」が拠点なのである。これはまた、「上野原」と「かこいノ原」に一致するのだ。この事実は、「古事記」や「日本書紀」の選者が両地に何らかの情報を掴んで比定したと思われる。それが古老の伝聞なのか巫女の「歌物語り」なのかは判然とはしないが、何らかの根拠や伝聞が存在したと考えるのが自然であろう。

こう考えると、「ソ」でもこれほどの深い意味が存在するのである。日本語の「音・会話」には限りない「意味」の深遠が潜んでいるような気がしてならない。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://nigihayahi91.blog65.fc2.com/tb.php/723-7fdfccf0
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。