上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
「延喜式」に<地に束草(あつかや)を敷き、上に竹スを加えよ。其の室のスの上に蓆(むしろ)を加え」とある。是は明らかに、産土の小屋の中と同じ構造である。

縄文時代からお産の原型として大嘗宮と同じ構造なのはいかに産土が日本の基本的な産土小屋であるかを物語っている。お産の時、沁み込む産液が地にしみこみ、それがすべての生きとし生きるものの初めであり、我々の根源的な出発点でらると言う宇宙的な発想からくると考えられる。

ある学者は大嘗宮は高床式なので床は「地」のはずがないと言うが是は一部を見て全体を見ない卑小な見解である。「延喜式」は哲学を記しているのであって、現実を述べているのではない。「生まれる」古代語で言えば「御阿礼」の根源的状況を言っているのである。この発想は宇宙の「カオス」にまで行き着く遠大な発想であり、その精神を理解しないと卑近な住居論に陥ってしまう。

宇宙の神秘は「ビッグバン」とともに沸き起こる「膨張」を物語るもので、やはり
「混沌」がその根本にあると私は理解している。

縄文人は科学は知らなかったとしても、直感で宇宙の膨張を真に体感して「混沌」と言う表現を使っていた。我々、現代人は学習で理論を知っているに過ぎないが、実は、時間や空間の真の姿は解かっていない。解かっているような理屈ずけをしているだけある。ある学者のように「目の前の事実らしきもの」に囚われては真実はつかめない。常に疑問が物事の前進を呼ぶ事が出来なくなる。

しかし、日常生活には科学の帰納法は必要で、経験の積み重ねによる生活の進行には誤りの事実は大切なのは言うまでもない。真実と生活の現象とは区別して考えるべきである。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://nigihayahi91.blog65.fc2.com/tb.php/733-bd2f97da
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。