上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
元正天皇(養老四年)の時、大隅国守・陽侯史麻呂が隼人に殺害されたと通説は記している。

私はこの記述に何か物足りなさを感じていた。ニュアンスから言えば、隼人の悪を記述する感じが伝わる。
そこで私はもう一歩踏み込んで調べる事にした。

陽侯氏の職掌は文書を管理し、記録を司るとしている。どちらかと言うと事務職的な職種である。
一方、続日本紀を細部にわたり読むと、この年は波乱の年で、地震が頻繁に起こり、旱魃や洪水が頻繁に起こっている。当時の大物管理者・藤原不比等が死去している。

大隅地方でも天災の影響が考えられる。人心は苦境に置かれ、農耕はその収穫を減退させていただろう。そこでその制作は柔軟な人心を安定させる政策が必要であったように思われる。しかし、陽侯氏は事務職で人を懐柔する技術的なノウハウが欠如していた可能性が考えられる。政令(みことのり)が徴税推進であっても、情況が悪い方向にあれば、臨機応変に政令を解釈すべきであったのに、政令を優先した政策を挙行しようとした官僚的発想が陽侯氏にあったのではないかと考えられる。
そこで大和朝廷(女帝・元正天皇)の結論は武力による制圧であった。(大伴旅人将軍の派遣)ここにも元正天皇の決断の過誤があったように思われる。老獪な藤原不比等が健在なら又違った方策を考えたであろう。(私は好みから言えば不比等の人間性を好まないが、その能力は評価する)
そうした劣悪な情況が大隅地方の混乱を増強させてはいなかったか。結果として、740年の藤原広嗣の乱まで情況は悪化してしまい、曽君多理志佐の寝がいりで終局する。
私は陽侯史麻呂の殺害は大和朝廷の人事の誤りが不測の混乱を引き興したように思う。
藤原不比等は一説には、太安麻呂の管理能力をかい、民部長官に抜擢したと言う。太氏は多品治が湯浴令(ゆのうながし9のように天武天皇の壬生役だったように、養育技術に堪能だった才覚を見抜き、当時、地方豪族をまとめる人材として有効なのがはっきりと認識していたように適材適所を不比等は心得ていたような気がする。その判断機関を失ったことも哀しい結果を増長してしまったと言える。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://nigihayahi91.blog65.fc2.com/tb.php/748-388eab40
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。