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阿多族の本拠地は薩摩半島にあり、阿多隼人が居住していた。古来より薩摩半島(野間半島)は、黒潮の流れに乗って、南島や中国・江南との交流とのが考えられ、当然、種族の交流は行われ、開放的な気質が生まれるのは自然な流れであろう。

滝川政次郎氏は江南からこの薩摩半島にやってきたのは隼人族(隼人系安曇族のことだろう)だと言い、私は更に、久米族もまた、この種族に属すると推察している。滝川氏はその安曇族は北九州にも漂着して、福岡県粕屋郡にも定着したと述べている。
吉原又吉氏は海人族を隼人・安曇・宗形と区分していますが、それは先住民系・江南系・朝鮮系に分けると言う意味であろう。
古事記では、ニニギ命と吾田姫の血縁が物語っているように、安曇族も隼人族と混血して同化しているので、大きく分ければ海人族は安曇族と宗形族に分けられるでしょう。更に、イザナギ命の禊祓いにより安曇族が生まれ、天照大神とスサノオウとの誓約(うけい)によって宗形族が誕生した。その過程を考えると、安曇族の方が発生は古く、先行している。
それは中国・江南を中心にした海人族の方が宗形族より先行しており、江南海人族の後裔かその海人族の影響を受けた南部朝鮮海人族が成長したものであろう。
す。
しかし、日本の五世紀以後の海人族、安曇族と宗形族はむしろ万葉集・山上憶良の白水郎荒雄(安曇荒雄)の遭難の哀歌碑に見られるように、その当時は宗形津万呂の方が地位的には上位にあるように思われる。が、両族は競合関係にあるのではなく、共存状態にあった。

前97年に崇神天皇は即位したとされているが、その天皇が出雲の神宝を見たくて、武諸隅を出雲に向わせる。しかし、出雲の神宝の管理者である出雲振根は筑紫に出向して留守であったので、弟の飯入根に神宝を渡してしまう。
神宝の問題は後に分析を譲るとして、ここで問題なのは、出雲振根が何故出雲に行っていたかである。
確かに出雲と筑紫は対馬海流での航海は可能である。しかし、その具体的な内容を語る資料を私は知らない。そこには宗形族が絡んでいるのだろが、文献には現れていない。ただ、出雲の国引き神話で八束水臣津野命が新羅から国を引いている。宗形女神は新羅と関係があると言う説もあり、全くの無関係とはいえないであろう。又、出雲には岩見に物部神社が存在しており、北九州は物部氏の本願である。祭祀氏族である物部氏は十種瑞宝の管理者である事から出雲の祭祀的国情とは無関係とも思われず、出雲と筑紫は交流がある事は考えられないことはない。
物部氏は神武天皇より先に大和へ進出しており、北九州から安曇氏一族を引き連れている。
物部神社はニギハヤヒの子・宇摩志麻遅命(物部氏の祖)は天香具山命と大和を離れ、天香具山は弥彦神社へ宇摩志麻遅は出雲の岩見・物部神社へと行き着き定着している。
そうした伝承を考えると、出雲と筑紫は比較的親密な関係があったのかもしれない。

私は出雲と北九州は黒潮の文化圏内で航海については、古代においては、安曇族と宗形族の交流は親密でそれが出雲振根の筑紫行きの記述(日本書紀)になったと推察している。

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