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神武天皇を正しく認識しようという発想から「古事記」を紐解き、神武東征の意味を知るのはニニギ命の「天孫降臨」から始めなければならないと理解する。

この垂直神話はその「アマ」に意味を水平説話に訳すと渡来伝承に行き着く。
滝川政次郎師は「猪甘部考」で安曇氏が中国・江南より北と南九州の渡来したと述べている。私はその首長がニニギ命の可能性を追求しているのだが、その時にニニギ命は臣下を率いていたはずで、その内訳を知りたいのだが、「古事記」にも五伴緒(いつとものお)と思金神・手力男神・天石門別神を従えるとあるが、そんなはずはなく実利的な部下がいたはずである。

類似した情況で徐福は秦始皇帝から逃れる為、五百艘の舟に男女三千人と五穀種、百工を乗せたと「史記・淮南衝山列伝」に書かれている。ご存知のように司馬遷は正確を記す歴史学者でこの文章は強ち誇張とはいえないと説く識者は多い。
それを信ずるとして、徐福は更に、医者・農夫・鋳物師・酒造職人・大工・石工・紙工・製塩、油製の専門家を乗船させたと「櫨山記」には書かれている。

又、ニギハヤヒ命の大和東遷に物部氏は船長・舵取り・鋳物氏・造船職人・笠縫職人などを率いている。多分、「徐福伝説」を参考にすれば、そのほか生活に必要な職人や技術をも持っていったに違いない。

ニニギ命が日向の高千穂の曾(襲)から野間半島の笠沙に移動した際、久米の命は先導したと記していたがそれはニニギ命の軍人として信頼する武将を意味していると言える。ただ、ここに安曇氏と隼人の名が見えないのは、多分、安曇氏が海人族で当時は武力で名を成していなかったからで、後に膳手として現れるように裏方であり、しかも隼人と融合して安曇系隼人として隠れていたと私は推察している。久米氏はその後、神武東征では神武天皇の皇后を推薦するほど重要な地位にまで上り詰めるが、四世紀以後、衰退したのち安曇氏がとって変わったと思われる。勿論、武力の代替者は大伴氏であろう。

今昔物語の久米の仙人の条では、安曇氏と久米氏は同族乃至はごく親しい間柄だと記述されている。(扶桑略記ではそれに大伴氏が加わる)
安曇氏は「古事記」では天孫族に比定されている。(イザナギ命の禊にある、綿津見神の末裔)しかし、久米氏はニニギ命の先導の将軍として書かれ、神武天皇の重臣として記述されてはいるが直接血の繋がりがあるのかは不明である。ニニギ命と安曇氏は系譜が同じだが、久米氏は別族の同志かもしれない。だから、その後、久米氏が重要な地位にいないのはそんな情況が反映されていたと考えるのもまた、真実なのだと思われる。
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