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私は予てより「呉」と南九州の初期王朝を追っていた。
ここに林羅山の「神武天皇論」がある。一部抜粋だが、こういっている。

「東山の僧、円月はかつて日本紀を修す。朝議協(かなわ)ずして果たさず、遂に其の書を焼く。余、ひそかに円月が意におもうに、按ずる諸書、日本を以って呉の太伯の後と為す。それ、太伯荊蛮に逃れ、断髪、文身し、交龍と共に居る。その子孫、筑紫に来る。おもうに必ず時の人を以て神と為せん。これ天孫、日向高千穂の峰に降りるの謂か。当時の国人、疑いてこれを拒(ふせ)ぐ者の或はこれか。これ大己貴神順い服せざるの謂か」

中厳円月(1300~75)、南北朝時代の禅僧。儒教・朱子学の実践的な論者で「日本紀」を編むのに江南のニンボウに七年間、学習に行く。

呉について、この印文土器に関して、貝塚茂樹は次のような興味ある事実を述べている。「1954年、江蘇省丹徒県の揚子江の台地で十数個の青銅器が発見された。その中には、周初期の中原式銅器がまじっており、その器の銘文に<宜江・ソクが周の康王によって、この地に封じられた>と書いてあった。かつて、呉国は周の二王子の太伯と仲擁が弟の季歴に王位を譲って南に奔り、蛮族中に身を投じて建国したと伝承されているが、この呉国の建国物語は事実とは無縁の説話とみなされていたが、しかし、二王子ではないが、ともかく周族の有力な遺族が揚子江に宜という植民地国家を建てたことは紛れもない歴史的事実であったと述べている。

「晋書」「梁書」(七世紀)と中国を訪れた日本の太夫が、自らを呉の太伯の子孫だと述べている。
又、「魏略」(三世紀)にも、「倭は自ら太伯の後なりと述べている

私が「呉」と「倭(和)」の関係を繋ぐ根拠の文献である。

追記
文化的に初期王朝、特にニニギ命から神武天皇まで末子相続や文身・鵜飼の習俗、これは朝鮮民族の儒教による長子相続や文身の皆無などと異なり、あくまで江南の習俗である。これは「越」より「呉」に顕著で、滝川政次郎師の江南人の野間半島上陸がそれを明らかにしている。
末子相続はその系譜が物語っているし、神武東征の際、大久米命の安曇目が入墨の習俗を表現している。
私が南九州王朝を江南渡来説に傾けさせたのは、それらの事実からである。

八世紀の「古事記」「日本書紀」を編ませた<天武天皇>にしろ、<持統天皇・藤原不比等>にしろ、それを編集し資料収集をした太安万侶・稗田阿礼、舎人親王や識者にしろ彼等が朝鮮系の傾向が見られるのは周知の事実で、私の見解では彼等が北九州の朝鮮系の混血皇族である事は確証がある。
では、何故、初期王朝を南九州に設定し、その習俗らしき表現で書き連れたのであろう。理由は一つそれが史実であったからであろう。しかし、考古学が存在しない当時では、それは伝承であって、確証が得られなかったために神話と言う手段をとったと推測されるのである。
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