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2014.11.17 聖と穢。
古いノ一トを見返していて、「聖と穢、産と厠」についての文章を再考してみたい。

日本では、産の神は山の神、厠神、箒神とも考えられている。便所にがいて、落ちた魂をとり戻してくれたり、子が生まれて7日目に「雪隠参り」をするのは、便所と井戸と同じように地下の霊界につながる聖なる穴であるからである。

三島溝クイ神は丹塗矢となって、便所で娘を犯す。又、倭都姫も大物主神が便所で「ホト」を突く。

最後(いやはて)にその娘・イザナミ命、身自(みずか)ら追い来たりき、ここに千引き(ちびき)の石(いわ)をその黄泉比良坂に引き塞へて、その石を中に置き、各対(むか)ひて「事戸を度(わた)す」とき、イザナミ命言(もう)さく「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、汝(いまし)の国の人草、一日に千頭絞(ちかしらくび)り殺さむ」とまおしき、汝(いまし)然せば、吾一日に千五百(ちいほ)の産屋立てむ」とのりたまいき。是をもちて一日に必ず千五百人(ちいほたり)生まるるなり。
(この説話は「黄泉と産」の関係が「古事記」に語られている。)

日本人は物事を連鎖と関係で進める。決して、一面で捉えようとしない。一神教は自己の側面から捉え、例えば極端に論理を進めれば、窮地に他人が直面していても、個人が大切でそれを。回避しても神は許したもうと言う。そのための教戒師との告白を用意され、心の合理化をする。しかし、多神教の日本人は複雑である。友倒れも又、無理心中をもまたゆるされる。一方、他人を自己とみなす複雑な論理は融和の哲学をも生み出す。環境問題も物と人を一体として、九十九の神をも生み出し、環境の砂漠化は避けて通るという西欧人には理解不可能な行為を実行する。
私はこの弁証法的な日本流哲学を誇りに思っている。

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