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「記・紀」の素晴らしさは特に、「日本書紀」の編集者達の優秀さについては嘗て話したことがありますが、ここで二つの伝承について話してみようと思います。
その一つは中国の神話と言われる「琢鹿(たくろく)の争い」です。BC2000年代に黄河流域や長江流域に大洪水が襲います。当時、黄河には黄帝が支配していました。。一方、長江には三苗国があって、その支配者は「しゆう」という名の首長が君臨していました。洪水は長江流域に酷く、上・中流域は全壊状態でした。黄河は上流だけに留まったと言われています。
これは考古学的に言えば、黄河はBC5000年より続くリャンシャアン遺跡に相当し、長江は良渚遺跡に当たります。中国は北の黄河流域の優位性が知られているため、南の江南は南蛮と蔑まれ、文化的には劣っていると思われていましたが、遺跡の発掘が進みますと、江南の文化も黄河の文化と劣らないのもがあると解ってきました。
良渚遺跡は稲作、灌漑、金属精練技術、築城技術など優れた文化を持っていたと言われています。
その総体を説明する神話が三苗神話で、BC2000年代の三苗国の大移動です。洪水で長江流域を追われた「しゆう」たちは洪水の被害を免れた黄河中流域を目指します。しかし、黄河には黄帝が君臨していて、当然そこで激突するのは自明のことです。「琢鹿の争い」はこうして興ります。
「史記」や「路史や述異記」によりますと、「しゆう」には81人に銅頭鉄額の兄弟や風師・雨師、三苗族、魑魅魍魎を従え、黄帝に戦いを挑みます。最初は経済力、軍事力に優れた「しゆう」軍が優勢で黄帝軍は敗色濃厚で困った黄帝は天にお伺いをてます。天の女神・西王母は配下の女神・「魃(ばつ)」を降臨させ、「しゆう」に対抗させます。「しゆう」は濃霧で戦場をかく乱する戦術で優位にたっていましたが、「魃」の威力で霧を解消させ、黄帝を勝利に結びつけ、「しゆう」を殺します。
一方、「孔舎衛(くさえ)の争い」で神武天皇は河内の豪族・長髄彦(ながすねひこ)と対しますが、土蜘蛛や国巣、女土酋長などを率いた長髄彦の軍事力に押され、長兄・五瀬命や二人の兄を失います。そこで、高天原の天照大神は助成にフツノミタマを君臨させ、長髄彦を殺します。
この二つの神話は構成的には非常に似ています。
勿論、「記・紀」の時代に考古学は存在しません。もし、解っているとしたら、中国の古文献でしょう。私は「日本書紀」を編んだ諸氏はその文献は知っていたと思います。彼等は昔あった史実に適う逸話を中国の文献に求めていたに違いないのです。その位の能力は彼等にあったはずです。黄河の中華思想の本質を彼等は理解していたと過程すると、「史記」は史実に近い記述を述べているのは認識していたでしょうし、それに纏わる文献は知悉していたとしても不思議ではありません。私は神武東征の「孔舎衛の争い」を読んでいて、その総合判断が神武東征に読み取れ、つくずく「日本書紀」の編者の優秀性を思わずにはいなれませんでした。
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