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ある古代史家は「ホ」についてこう述べている。
まず、「日本書紀」について「吾が児、比の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし、与に床を同じくし、殿(おおとの)を共にして、斎鏡(いおいかがみ)とすべし・・・・又勅して白く。吾が高天原に所御(きこしめす)斎庭の穂を以て、亦吾が児に御(まか)せるべし」とのたまう。

天忍穂耳尊は、稲穂の神、又は稲穂をすべる神、穀霊そのものである。また「オシホ」は「大穂」とも解されるかもしれない。ヒコホ(彦穂)つまり新生の穂、米児を意味するニニギ尊の親を表わす「大穂」と見做して差し支えない。
一方、火のニニギ尊は、稲穂がたわわに実ることを表わしたものである。「火」の「ホ」は、「炎」や「稲穂」のように、先端が閃って上に向くものを表わしている。そこから優れたもの「ホ」というようになった。

本居宣長は「古事記伝」で、「穂之丹饒君にて、稲穂に因れる御名なり、丹とは稲の赤熟(あから)めるを云。・・・・又芸(ぎ)は、加比の約(つずま)りにて、饒かいの意にて有るべし」

以上にあるように、天忍穂耳尊や火の(番能)ニニギ尊のように「穂・火」を「ホ」と言い、「稲作」を意味する言葉に集約させようとする。
私は、日本語が元来、会話を基として、その音を伝える習慣であった。「原日本語」はその言葉に多岐性を持っている。私は、古代史家が天忍穂耳尊や番能ニニギ尊を「稲の霊」と頑なである。しかし、日本語の本質を考えると、強ち「ホ」を一方的に決めとけることが正しいとは思わない。これは私の私見ではありますが、「古事記」「日本書紀」の構成を見ると八世紀の識者は賢明で「ホ」を二面性を暗示させるように提示しているように思われる。

八世紀の大和に於ける識者は、明らかに弥生時代以来の稲作を深く理解し、その恩恵を受けているのはいうまでもないだろう。それは彼等が北九州の原郷の出自であり、ニギハヤヒ命や物部氏と同様に朝鮮半島の文化や習俗の影響を受けているに違いないのである。そこには儒教の臭いがする。

しかし、神代における神話は北九州の文化的・思想的範疇を越えて、南九州から始めている。南九州は末子相続や文身・断髪、鵜飼の習俗が伝わり、朝鮮半島にはない中国江南の文化・習俗を表わしている。又、日向・薩摩の地はシラス台地の火山灰の堆積で稲作には不向きな土壌である。それなのに「古事記」「日本書紀」の<天孫降臨>を霧島山麓の「曾(襲)」の地から始めている。薩摩・日向は太古より「火山」の大噴火に悩まされて、その文化・習俗は水稲耕作を除けば江南的である。

ニニギ命は日向の高千穂の曾(襲)より、笠沙に移るが、そこで出会ったのは吾田津姫(木花之佐久夜姫)である。姫は自分の父は大山祇命だと告げる。大山祇命は火雷神や高オカミ(龍神)と共に、火の神・迦具土の児である。
そして、火の室に囲まれて生まれた児が火照命(海幸)・火遠理命(山幸)と火にまつわる神々である。
そう推察すると南九州は<火に関わる地(くに)>であり、そこから出自した皇孫も「火」に取りつかれた皇孫たちである。

勿論、八世紀の「古事記」や「日本書紀」の編纂者たちは、大和の大神(おおみわ)への対抗に天照大神を設定し、宗教改革を目指すと言う役割を仰せつかっているはずで、「稲霊」を神話の文脈に押し込める主旨をも臭わさせることも忘れてはならないと言える。

そこで彼等は史実も深く理解していたと思う。太古(縄文時代)・九州・大和の歴史の経過を古老・巫女達の語りから深く認識していたと推察する。そこで神話と言う形を借りて彼等は語ることになる。
賢明な彼等は神武東征の先に饒速日命と物部氏の東遷を大和へ先遣させていることは、八世紀の政権を意識した賢明な把握であろう。そこには稲作の重要な根が潜んでいやしないかと私は推測する。饒速日命の東遷が語られなければ「ホ」の二重性は単なる推論に過ぎなかったろうが、その東遷が「記・紀」の編者の思惑は見逃していただろう。それは双頭の妖怪にも似て複雑に時空の空間を超えて、巧妙に「ホ」の二重性を語っているのだ。それと共に彼等が太古からの史実を認識していたのを私は理解する。

12000年前の上野原遺跡を彼等はどの程度知っていたか文献も遺跡を確認する記述が見当たらないので、確信はないがある程度の伝承を把握している様子が窺われる。

古事記が熊曾(襲)や曾の地を表現しているところを見ると、曾の内容が、白川静氏の「字通」にあるように、「曾は甑に通じる」と記述されている。上野原遺跡は12000年前の遺跡だが、「集石遺構」や「連結土坑」が発掘されており、その機構は、その装置は「蒸し器」の性格を示していることを見逃せない。
あくまで仮説ではあるが、「曾」の意味を私は「曾の地」と取りたい。そして、八世紀の識者達はそれを何らかの手段で認識していたと思う。
南九州の「火の地」の類推から「古事記」は火を扱う器具を熟知していて、南九州の土器が丸底が北九州の尖底と異なることを知っていたはずだし、上野原遺跡やかこいノ原遺跡が南九州に存在していたぐらいの認識はあったと私は推察します。
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